桐野作人@kirinosakujin

時事通信の配信記事で坂本龍馬の花押付き書簡についてのコメント。
今回は、他のメディアへのコメントと視点を変え、龍馬が薩摩藩重役の岩下佐次右衛門に同行して関東に下った記述を重視して、龍馬が薩摩藩と密着するきっかけとなり、その生涯の転機となったことを述べました。

http://sp.m.jiji.com/generalnews/article/genre/social/id/2084323


承前)龍馬書簡に登場する岩下佐次右衛門は薩摩藩の江戸詰め大目付であり、このとき、長州征伐のため、将軍家茂の進発を工作するため、たまたま江戸から上京してきていました。
禁門の変のあとであり、龍馬のような脱藩浪士は単独で江戸へ入るのは逮捕、処刑など大きな危険が伴いました。


承前)だから、龍馬は岩下一行に紛れて薩摩藩士として関東に下り、蒸気船借用の交渉をしようとしたようです。
これは小松帯刀書簡(大久保一蔵宛て)にのなかにある、失脚した勝安房から委託された龍馬やその仲間たちを「航海の手先」として活用しようという有名な一節と関連する出来事です。


承前)坂本龍馬は関東下向の意向を小松帯刀に話し、小松が岩下に龍馬を託したのではないかと思われます。
蒸気船借用といっても、龍馬に先立つものがあるはずもなく、これも薩摩藩から援助を期待していたのではないかと考えられます。
もっとも、龍馬は蒸気船借用には失敗していますが。


勝海舟が失脚して神戸海軍操練所から放り出されそうになった坂本龍馬やその仲間たちを救ったのは小松帯刀であり、その後、彼らは鹿児島に行き、さらに長崎に移り、社中(俗称:亀山社中)を結成。
でも、彼らは薩摩藩から給金をもらっており、薩摩藩(あるいは小松)お抱えの境遇だった。


承前)坂本龍馬は社中とはあまり関係がなかったと最近はいわれている。
薩摩藩との縁が深くなった龍馬は、この花押付き書簡からほどなくして、龍馬は「薩州様西郷伊三郎」という変名(飛脚便の宛名)を使うよう家族に伝えている。
薩摩藩とくに西郷との縁が深いことを感じさせる。