町田 明広@machi82175302

12月24日、老中稲葉正邦が襲撃決行を命令、庄内藩、出羽松山藩、上山藩、鯖江藩、岩槻藩に加え幕府陸海軍も動員した。
幕府は軍目付を任命しており、「薩摩藩邸焼き討ち事件」と言われるこの事件は、単なる不逞浪士の取締でなく実態はその規模などを考慮すると、戦争といえるレベルである。#西郷どん


12月25日早朝、薩摩藩邸を取り囲んだ庄内・松山(庄内支藩)軍は一斉に砲撃を開始、邸内に突入。
脱出をはかった浪士や薩摩藩士は市街に出て抵抗、一帯は烈しい戦闘になった。28日、対薩強硬派の目付滝川具挙・勘定奉行小野広胖が上坂、議定就任が内定した慶喜に報じた。#西郷どん


強硬派に押されたか、堪忍袋の緒が切れたか、慶喜は慶応4年元旦、滝川に「討薩表」を授け上京を指示、2日に率兵上京が開始された。
薩摩藩・西郷は江戸藩邸を脱出した秋田藩浪士から30日(大晦日)に薩摩藩邸焼き討ち事件を確認、翌元旦に「残念千万之次第ニ御座候」と述べた。#西郷どん


これは新政府内が分断され、薩摩藩が狙い撃ちにされることを懸念からの発言と考える。いずれにしろ、本事件は鳥羽伏見の戦いの導火線となった。
さあ、本日のメインであった鳥羽伏見の戦いを見ていこう!#西郷どん