町田 明広@machi82175302

慶応4年(1868、明治元年に9月8日改元)1月2日、旧幕府全軍は大坂を激発、先鋒は会津・桑名、後続は姫路・讃州高松・伊予松山・大垣・浜田・忍・笠間等の諸藩と幕府軍、本営を淀に置き全軍の指揮は老中格大河内正質、「討薩表」は大目付滝川具挙が携え入京した。#西郷どん


1月3日、新政府は旧幕軍に対し人数引払いを命じ、勅命拒否の場合、「止むを得ざるの場合に付、朝敵たるをもって御所置在らせらるべく候事」と通告した。
しかし、老中格大河内が正総督として伏見に本軍を率兵した。#西郷どん


さらに、若年寄塚原昌義が副総督として鳥羽に別軍を率兵し、伏見では2日夜より会津藩兵を主力とする諸隊が続々到着、陸軍奉行竹中重固が統率し伏見奉行所に本陣を設置した。#西郷どん


肥後藩はもともと親幕的であり、世子細川護久の許で議論が沸騰し、旧幕府に加担すべきとの声も強かったが、護久の判断で静観に決定した。
肥後藩が参戦の場合、状況は一変したのではないか。
このあたり、大山柏『戊辰戦役史』上に詳しい。#西郷どん


薩長土三藩兵は伏見奉行所を包囲、1月3日昼より一触即発の状態に突入、鳥羽口でも旧幕軍は警備薩兵に北上を阻止され続け、午後5時、旧幕軍は鳥羽口阻止線を強行突破しようとしたため激戦が開始された。#西郷どん