>>253
土佐の政府軍加担7日と、長州藩兵2900の数字は間違ってんじゃないかな?

3日日が暮れた頃から始まった戦闘(対峙は朝で通せ通さないで半日続いた)は
京阪中書島から伏見桃山駅辺りの伏見街道、鴨川近くの近鉄竹田駅辺りの鳥羽街道
この二手で戦闘が始まり御所から伏見が10km、鳥羽が7kmほど離れた場所になる
この最前線にいたのが薩摩長州土佐、薩長はお互い両方分けて土佐は伏見のみ
薩摩と長州の兵数はお互い圧倒的に薩摩が多く、長州は1000ぐらいだったはず
朝敵で長らく京に入れなかった長州は、小御所会議の1週間ほど前に兵庫に進軍し
朝敵解除で上京、ほぼこの兵が参加したと思われる
他の長州兵は山陽路を東上し、広島鳥取岡山などの藩兵と合流しながら京へ向かってる最中だった
福山藩と少しだけ交戦し福山は降参、この軍が長州の主力部隊
伏見にいた土佐は初日は不参加であったが、翌日の4日(朝廷が薩長を官軍認定した前後)には
容堂の意向を無視し戦闘に参加した
その翌日以降になるが、後方にいた鳥取や広島も最前線に来て戦闘開始する

数字を間違って書いたのか?全体の流れで一部誤認があるのか?
分からないが