「御聖断」として下された王政復古、辞官納地に対して
自ら建白して、或いはシンパの大名を使って(当時としては)民主的な手続き、
最低限の天下公論も尽くしていないとギリギリ抵抗していたのが徳川慶喜で、
それに対して朝廷も譲歩を余儀なくされ、
辞官納地も、その時と場所は指定していない状態まで政治的に追い込まれたのが西郷だったけど、
結局、最初から戦争するつもりなら十分勝ち目があった徳川方が
陳情名目で武装上洛を試みた結果の鳥羽伏見、そこから徳川方は政治的にも決定的に負けた

その西郷が閣議決定を「御聖断」で覆されて下野して
戦争ならば日本規模、最低でも九州規模の電撃戦を掛けるべき所を
「糾問の筋是あり」で出兵して滅亡したと言うのも