0001日曜8時の名無しさん2014/04/03(木) 23:17:26.43ID:dTqtGDnU
■★■美男美女なのに大河未登場の歴史人
しかし、他の姫も、「姫」という身分に生まれた時点で、もう大抵美人と呼ばれることは約束されてるんじゃないの?
不美人伝説の新庄局(吉川元春室)でも、貶められた説は有力だし。
当時の姫と庶民では、全然環境が天と地だと思うのよ。
明治大正の世になってからでも、白洲正子が子供のころの、勲章ビカビカのおじいちゃんの膝の上に乗った写真とか見ると
同じころに田舎ではおしんみたいな子が子守り奉公されられてたような姿とは全然別世界の住人だ。
今ではそこらへんの一般ピープルでも、頑張ったらカッコはセレブみたいに装えるけど。
昔は姫に生まれてそこそこの容姿だったら「みめ麗しかった」とか記述されるんじゃないの?
0029日曜8時の名無しさん2014/05/01(木) 00:00:27.02ID:1B3zGw+D
まあ美容に金と時間をかけられ、意識も違うという点では、食うのに必死な層とは差はついて当然だが
姫以外でもでこういう人もいる
★地獄太夫★
室町時代の遊女。梅津嘉門景春のむすめで幼名を乙星という。如意山中で賊にとらわれたが、あまりの美貌のため遊女に売られ、泉州堺高須町珠名長者にかかえられた。
現世の不幸は前世の戒行がつたないゆえであるとして、みずから地獄とよび、ころもには地獄変相の図を繍り、こころには仏名をとなえつつ、口には風流のうたをうたったという。
一休宗純が堺におもむいたとき、「聞きしより見て美しき地獄かな」と歎賞すると、武家の生まれで歌のやり取りにも秀でていた太夫は
「生き来る人の落ちざらめやも」と見事に返し、これを機に2人は師弟関係を結んだという。有名な狂歌「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」は、
一休が太夫に贈ったものとする説もある。地獄太夫は「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 飢えたる犬の腹をこやせよ」という辞世の句を残して若くして亡くなったが、
最期を看取った一休は、泉州八木郷の久米田寺に塚を建てて供養したといわれる。
0030日曜8時の名無しさん2014/05/01(木) 17:36:28.03ID:C1zUkQIM
大坊聡
陸奥宗光のヨメと、陸奥宗光の息子と、陸奥宗光のイトコ
あの美形一家を同時に登場させて欲しい。
全員顔面偏差値だけで選んで、セリフ無しで良いから。
>>31
陸奥亮子の横顔はしょせん修正写真じゃん
正面から写ってる家族との写真の方が実像に近いというよ >>3
黄金の日日に出ているよ
詐欺オークションの被害者の一人として 0034日曜8時の名無しさん2014/05/02(金) 18:06:42.99ID:sk4iHsYW
片倉重長
0035日曜8時の名無しさん2014/05/02(金) 22:28:57.75ID:vScYH3wg
山本屋おとよ
山本屋おとよ は、幕末の町娘
幕末の筆頭老中の阿部正弘が、ひと目ぼれした町娘
おとよ
1840−1914 江戸後期-大正時代の女性。
天保(てんぽう)11年生まれ。江戸向島長命寺境内の桜餅屋2代山本金五郎の娘。
美貌(びぼう)で浮世絵にもかかれ,江戸中の評判となる。
安政3年ごろ老中阿部正弘に見そめられ側室となるが,翌年正弘が若死にしたため
口さがない江戸っ子の噂をよんだ。
明治12年ごろ実家にもどった。 大正3年9月19日死去。75歳。
0036日曜8時の名無しさん2014/05/02(金) 22:49:32.58ID:vScYH3wg
大正三美人
大正三美人(たいしょうさんびじん)とは、大正時代に美人と言われた3人のことである。
(人選には、異論もあり、林きむ子 を、推薦している人もいる)
九条武子(1887年 - 1928年)
旧姓・大谷武子。1887年、京都西本願寺・大谷光尊の二女として生まれる。1909年、男爵・九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られた。
柳原白蓮(1885年 - 1967年)
北小路資武と結婚したがほどなく離婚。九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚したが、宮崎龍介との駆け落ちした白蓮事件で話題をふりまく。1923年、宮崎と結婚し、情熱的歌人として知られた。
江木欣々(1877年 - 1930年)
新橋の芸者で、法律学者・江木衷と結婚し、社交界で名を知られた。江木と死別した後の1930年、異父弟・早川徳次の家で縊死。
0037日曜8時の名無しさん2014/05/02(金) 22:54:26.30ID:vScYH3wg
0038日曜8時の名無しさん2014/05/02(金) 23:06:35.10ID:vScYH3wg
イケメン坊主で探検家
大谷 光瑞(おおたに こうずい、1876年(明治9年)12月27日 - 1948年(昭和23年)10月5日)は
日本の宗教家。探検家。
明治時代から昭和時代までの浄土真宗本願寺派第22世法主。伯爵。
諱は光瑞。法名は鏡如上人。院号は信英院。大正天皇の従兄弟にあたる。
●大谷光瑞と大谷探検隊・ミイラ発掘 - 探検コム
で、検索すると、探検記録が紹介されていたけど
ミイラの写真もあったので、ミイラが怖い人は注意
0039日曜8時の名無しさん2014/05/03(土) 01:38:03.37ID:+2nKrby7
十五代目 市村羽左衛門(1874-1945)
フランス生まれのアメリカ軍人チャールズ・ルジャンドルが軍事顧問で日本に駐在中
松平春嶽の庶子である池田絲との間に一男二女をもうけた。
長男は四歳で十四代目市村羽左衛門に養子に出され、二枚目や若衆役を中心とする白塗りの立役として活躍。
時代を代表する美男子で、その美貌から「花の橘屋」と呼ばれる。
0041日曜8時の名無しさん2014/05/05(月) 16:19:01.37ID:yL8gLlNL
世阿弥
美少年なりしが、大河未登場
はて面妖なことよのう。
未登場というか、世阿弥の生きた時代を扱った大河が存在しないんだから仕方がない
一応花の乱冒頭で禁闕の変を扱っているけどさすがに出すのは無理でしょ
美男かどうかは置いておいて
いつか上川隆也に小西行長をやってもらいたいと思っていたのだが
上川隆也の方が年取ってしまった
ttp://www.city.uto.kumamoto.jp/pub/1595_filelib_038b8e161a5664d12d14f6097a5c8182.jpg
>>42
「太平記」でも最終回にチラッと死亡フラグ立ってる尊氏が「もうじき生まれてくる孫の名前は、義満にしよう」とか言うけどなw >>44
それを登場したとカウントしてもいいのなら、太平記に観阿弥が出た時に世阿弥の父であることにナレで触れているな 奥平 昌邁(おくだいら まさゆき)
伊予宇和島藩主伊達宗城の四男で、最後の豊前中津藩主、福澤諭吉のススメでアメリカに留学
今の基準でもなかなかのイケメンじゃね?
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/44/Okudaira_Masayuki.jpg
0047日曜8時の名無しさん2014/05/07(水) 21:00:07.53ID:0RrsrhSK
坂の上の雲にキムタク似の現代風イケメンが紹介されたね
kwsk
>>45
登場したとカウントするんじゃなくて
>世阿弥の生きた時代を扱った大河が存在しない
というのが違ってるだけ
と言ってもわずかで微妙な期間でしかないけど >>14
それなら ついでに 楊貴妃 クレオパトラ 0051日曜8時の名無しさん2014/05/08(木) 22:25:13.59ID:ZkjYWse5
0052日曜8時の名無しさん2014/05/08(木) 22:33:53.63ID:ZkjYWse5
0053日曜8時の名無しさん2014/05/08(木) 22:48:35.71ID:ZkjYWse5
>>53
アルシノエが美人なのに嫉妬したブスのクレオパトラが殺させたという線もありそうだな。 0055日曜8時の名無しさん2014/05/13(火) 00:01:57.84ID:GnS+UXkp
0056日曜8時の名無しさん2014/05/13(火) 00:22:01.23ID:GnS+UXkp
信長の娘の冬姫
大河で見た記憶がないな?
冬姫は美男子であった父・信長の血を濃く受け継いでいたらしく、類まれな美貌の持ち主だった。
0057日曜8時の名無しさん2014/05/13(火) 00:25:58.57ID:GnS+UXkp
伊達政宗の祖母、久保姫
夫になる伊達晴宗、姫が可愛過ぎて花嫁行列を強襲
強奪して六男五女を産ませる
よっぽどの美少女だったんだろうなw
伝わってるエピソード読んでると面白い
0059日曜8時の名無しさん2014/05/13(火) 00:35:17.68ID:GnS+UXkp
補足
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E5%BC%98%E3%83%92%E3%83%AD%E5%AD%90
末広ヒロ子 さんは、すごい美人であったが、
晩年は容貌が老いてしまい甥から怪物と言われていた。
末弘 ヒロ子(すえひろ ひろこ、明治26年(1893年)5月20日 - 昭和38年(1963年)3月18日)は、
福岡県小倉市長・末弘直方の七人兄弟の四女。
明治41年(1908年)3月、学習院女学部3年生(16歳)のとき、日本初の全国規模ミスコンとなった時事新報社主催
「日本美人写真募集(良家の淑女写真コンクール)」において第一位となり
「日本のミスコン優勝者第一号」とされる。
●晩年
ヒロ子の姉の孫にあたる山下洋輔は、第二次大戦直後にヒロ子を何度か見かけたことがあると語っている。
当時すでに「曲がった腰と丸くなった背中、両手にリューマチを患っている老女」となっていた
ヒロ子のことを、
山下は密かに「カイブツ」と呼んでいたという。 0060日曜8時の名無しさん2014/05/13(火) 00:58:07.73ID:GnS+UXkp
(オカルト美女)
宗像 色姫(むなかた いろひめ、天文16年(1547年)−天正12年(1584年)3月24日)は
戦国時代宗像氏一族の女性。立花道雪(戸次鑑連)の側室。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E8%89%B2%E5%A7%AB
第77代宗像大宮司宗像正氏とその第二夫人で大内氏の重臣陶隆房(陶晴賢)の姪照葉のと間に周防国で生まれた。
同母 兄に鍋寿丸(氏貞)、異母姉に菊姫(母山田夫人)がいる。
色姫が生まれた同年に父は病死し、兄とともに周防国長門で母照葉によって養育された。
五歳のとき陶隆房のクーデターにより大内義隆が自害し、父 正氏の跡を継いだ異母姉菊姫の夫で、
色姫の従兄弟にあたる宗像氏男が戦死する大寧寺の変がおきている。
大寧寺の変後間もなく、天文20年(1551年)9月12日に色姫と母照葉、兄鍋寿丸は初めて宗像に入国した。
氏男戦死後の宗像家内は氏男の弟千代松を擁立する勢力と鍋寿丸を擁立する長州派に二分しており家督を巡って合戦を繰り広げた。
最終的には長州派が勝利し鍋寿丸は名を氏貞と改め第70代宗像大宮司を相続した。
この家督を巡る争いにより異母姉菊姫とその母山田夫人が長州派によって惨殺される山田事件がおきた。
山田事件の後は関係者の怪死や変死、数々の怪異がおきており、
色姫もまた12歳の時に奇怪な言動の記録がある。
事件の7回忌にあたる永禄元年(1558年)3月23日に母照葉と双六を興じていた際に、突然立ち上がり、
髪を振り乱し、照葉の咽喉笛に噛み付いたという。
その後、「われは山田の怨霊なり」と叫び、山田事件の惨状や恨み辛みなどを話続けたという[1]。
元亀2年(1571年)、25歳の色姫は大友家一族で立花山城城主の立花道雪のもとへ輿入れした。 >>59
そんな晩年より、ミスコン優勝が元で学習院院長の乃木希典の不興を買い、退学させられたエピの方が面白いよw
そのあとでそもそもミスコン参加はヒロ子の義兄が勝手に応募してとの仔細がわかり、
後悔した乃木が貴族院の跡取り息子との縁談持ってきた・・・
という話も、どうも最初から決まってた話に乃木が媒酌人として乗っかってきたというだけらしいんで、
「乃木さんあんたって人は・・・」と思わずにはいられないがw 0062日曜8時の名無しさん2014/05/13(火) 05:26:03.22ID:vJv7bs/c
0063日曜8時の名無しさん2014/05/13(火) 05:27:24.18ID:uaP3lrTS
>>63
ファミリーヒストリーの猿之助の回に出てたね
女優もやってたんだな
おれ規制かなんかでリンクが貼れないので、「朝吹磯子」の画像ぐぐったらすぐ出るから誰か頼めないかな?
明治の武井咲といってもいいテニスガール
もしよかったらついでに磯子のお父さんの「長岡外史」の画像も・・・w 0065日曜8時の名無しさん2014/05/13(火) 13:38:44.37ID:vs2Esa5I
>>65
もっと武井咲っぽいのもあるんだけど、この写真は見たことがないな。ありがとう!
下の長岡外史の画像開く時に、コーヒーを口に運びながら見るといいよw 0067日曜8時の名無しさん2014/05/14(水) 07:17:55.83ID:U4caQ7OR
>>66
長岡の髭は「坂の上の雲」で的場浩司が忠実に再現してたな。 織田信長の妹、犬
有名すぎる信長の妹・市に匹敵するほどの美貌の持ち主で肖像画も美人
信長から市同様に可愛がられたらしい
佐治信方に嫁ぐも夫戦死、細川昭元と再婚した
来栖 良(くるす りょう/1919〜1945)帝国陸軍戦闘機パイロット
外交官である父・三郎と、アメリカ人である母・アリスの三兄弟の長男としてアメリカのシカゴに生まれ育つ。
中学から日本育ち。当初こそ混血への偏見やいじめもあったが、人柄が良く逆境に負けずやがて人望を得ていく。
ラグビー部所属。また、その日本人離れした端正で色白な容貌と175cmの長身から、待合茶屋の芸妓達からは大変な人気があり、
満州出張時には現地のロシア人ホステスから同じロシア人と間違われたり、フランス旅行中には、現地人から俳優になるよう誘われたことも。
学生時代は航空工学を専攻、卒業して航空機メーカーに入社。徴兵されると帝国陸軍航空教育隊に入営。その後いくつかの経歴を経て
飛行分科「戦闘」のエンジニア・パイロットとして多摩飛行場の陸軍航空審査部飛行実験部戦闘隊に配属される。
1945年(昭和20年)2月17日、航空審査部は関東地方攻撃に16日から初襲来したアメリカ海軍の艦載機を迎撃。
迎撃の為に急発進した陸軍中尉操縦の一式戦「隼」のプロペラに接触、頭を刎ねられ即死した。
進駐軍が長野県軽井沢にある来栖家の別荘を訪問し、ある将校が軍服姿の来栖の写真を見て、
母・アリスに対し「戦死したのは気の毒だが、これも日本軍の犠牲だね」と語りかけたところ、
アリスは「息子が祖国の為に戦い戦死したことを誇りに思います」と答えた。
その将校は黙って写真を再度見て「いい男だ」とだけ述べて立ち去ったという。
0070日曜8時の名無しさん2014/06/04(水) 22:37:29.77ID:7IDzIUpj
(宇喜多秀家の姉が美人だった)
容光院
容光院(ようこういん、生年不詳 – 天正19年4月19日(1591年6月10日))は、安土桃山時代の女性。名前は不詳。
父は備前国の戦国大名宇喜多直家。母は円融院。弟に宇喜多秀家。他、姉妹多数。
宇喜多直家の晩年の子供で、天正元年頃の生年とされる。母の血を受け継いだ美女であったとされ、豊臣秀吉の養女となり、備中兵乱で死闘を繰り広げた毛利氏の一族、吉川広家に天正16年(1588年)10月に嫁いだ。
広家は殊の外この妻を大切にし、安芸国大朝の吉川元春館で新婚生活が始まったが、わずか2年半後の天正19年(1591年)4月19日に病死した。
広家は兄の吉川元長の菩提寺である万徳院に墓所を築いて弔った。傷心の広家は、出雲国の支配のため、翌年居城を月山富田城に移した。その後も広家は時の権力者に薦められても正妻を置くことなく、側室を置くのみにとどめ、容光院の菩提を弔った。
後に万徳院は慶長5年(1600年)の防長移封で岩国に移転したが、吉川広家は容光院の墓所を移転させず、他の吉川一族ともどもこの大朝の地に墓を残した。
伊藤道郎(いとう みちお/1893〜1961)
日本人の世界的ダンサー・コレオグラファー
ttp://www.youtube.com/watch?v=KAiq2rsjgcs
0072日曜8時の名無しさん2014/07/15(火) 09:57:26.48ID:70W6s+5e
>65
長岡外史は、司馬の評価が高くないからあれだけど
考えようによっては、アイデアマンで前例にとらわれない柔軟な俊才
別の視点から描けば面白い。秋山兄に匹敵する
0073日曜8時の名無しさん2014/07/15(火) 10:02:41.88ID:70W6s+5e
再登板になるけど、やはり国盗物語をもう一度みたいな
描く視点に自由度高いし、商業資本の勃興、既存特権との戦いなど
サイドストリーもうけやすいしね。
色恋も十分にいける
0074日曜8時の名無しさん2014/07/16(水) 20:31:53.49ID:lgGgLIoe
白蓮
0075日曜8時の名無しさん2014/07/20(日) 11:01:44.02ID:L99j3plp
織田秀孝
0076日曜8時の名無しさん2014/07/21(月) 15:39:50.16ID:P3QMKgjm
広大院 (11代将軍の徳川家斉の正室)
戦後、増上寺・徳川家墓所が西武鉄道に売却された際に広大院の墓も発掘されたが、血液型はO型で、
四肢骨から推定した身長は143.8センチメートルであった。
同時期に発掘された他の将軍正室・側室の遺骨と比較してもかなり小さかった。ちなみに広大院は生前は美女で知られていたという。
天保15年(1844年)5月10日に12代将軍・徳川家慶付き上臈・姉小路が食する天ぷら調理が原因で火事を起こし、
本丸を全焼させてしまう。この火事で広大院は御末の奥女中におぶわれて吹上御殿に避難した。この火事は奥女中が数百人死亡するという大惨事となった。
0078葛飾区青戸六丁目・色川高志(被害者)2016/07/24(日) 19:55:49.48ID:qDmIkLEJ