謹慎中の徳川忠長は、無断で甲斐府中に台徳院殿(秀忠)供養の寺を建立。
家光(尾上辰之助)はこれに怒り、忠長の所領である駿河・遠江・甲斐65万石を
没収、改易して上野国高崎に配流する。幕府は秀忠亡き後、諸大名を
取り締まる大目付を設置するほか、巡見使を諸国に派遣して支配体制を
強化していった。寛永10年(1633)12月、高崎城内に幽閉されていた忠長が自害。
忠長の行く末を案じていた家光は悲しみに涙する。