将軍方の応戦は激しく、一色輝喜、上野輝清以下十数名が三好方数十人を討ち取った。
その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹し、
義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。
治部藤通やその弟福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取った。
剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ[注釈 3]義輝も自ら薙刀を振るい、その後刀に持ち替えて奮戦したという。

しかし、多勢に無勢の中、昼頃までに義輝や進士藤延(進士晴舎の息子)、荒川晴宣、荒川輝宗、彦部晴直、
彦部輝信、杉原晴盛、小笠原稙盛、沼田光長、細川隆是、武田輝信、摂津糸千代丸といった主従全員が討死・自害した]。
公家山科言継の日記『言継卿記』の永禄八年五月十九日条は、奉公衆が大勢討死し、同日の午の刻の初め頃(昼前)には
将軍も「生害」されたと伝えている。