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1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声と設計依頼の激減
という危機的状況であった。妻は依然として離婚に応じなかったが、ライトはチェニー夫人との新居
を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にタリアセン[1]の設計
を始めた。その後、少しずつではあるが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲った。
タリアセンの使用人であったジュリアン・カールトンが建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、
及び弟子達の計7人を斧で惨殺したのである。なお、逮捕されたカールトンは犯行の動機を語るこ
となく、7週間後に獄中で餓死した。当時、シカゴの現場に出ていたライトは難を逃れたが、これに
より大きな精神的痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となった。そのような中で依頼が
来たのが日本の帝国ホテル新館設計の仕事であった。