1849年10月3日、ポーはライアン区第4投票所にあたる酒場「グース・サージェンツ」にて、ひどい泥酔状態でいるところを旧知の文学者にたまたま発見され、ただちにワシントン・カレッジ病院に担ぎ込まれたが、4日間の危篤状態が続いたのち、10月7日早朝5時に死去した。
その間ポーは理路整然とした会話ができる状態でなく、なぜそのような場所で、そのような状態に陥っていたのかを話すことはなかった。

ポーは発見された際、他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいたが、それが誰を指しているのかも分からなかった。
一説にはポーの最期の言葉は「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ(Lord help my poor soul)」であったという。

新聞各紙はポーの死を「脳溢血」や「脳炎」のためと報道したが、これは当時、アルコールなどのような外聞の悪い死因を婉曲に伝えるためにしばしば用いられた言葉でもあった。