斉彬は新たな人材の発掘と育成にも力を注ぎ、藩士たちに向けて、藩政に対する意見書を求める布告を出しました。この斉彬が出した布告を見た西郷は、それ以来幾度となく意見書を書き、藩庁に提出したと伝えられています。
 通説では、これら西郷の意見書が斉彬の目に留まり、安政元(一八五四)年一月、斉彬が江戸に出府するにあたり、西郷はその供に加えられ、郡方書役助から中御小姓、定御供、江戸詰を命ぜられ、江戸に行くことになったと言われています。西郷、二十六歳の時のことでした。
 斉彬の江戸出府に随行し、薩摩から江戸の薩摩藩邸に勤務することになった西郷は、藩から「庭方役(にわかたやく)」の役職を拝命しました。
 庭方役と聞けば、植木職人のような印象を受けますが、西郷に期待されたのは、そのような仕事ではありません。当時、身分の低い藩士が、藩主や家老といった身分の高い人物に拝謁するには、随分面倒な手続きが必要でした。
当時は封建制、つまり厳格な身分制度が存在する世の中であり、西郷のような下級藩士が、おいそれと身分の高い人々と簡単に話せるような時代ではなかったからです。
西郷が庭方役を拝命したのは、西郷がこれまで度々提出した意見書を斉彬が読み、西郷のことを薩摩藩の将来を担う、頼もしい若者と感じたため、面倒な手続きを取らずに、自由に庭先などで会うことの出来る庭方役に任命したと伝えられています。
 安政三(一八五六)年四月十二日、西郷は初めて藩主斉彬に拝謁した時のことを同志の大山正円(後の綱良)宛てた手紙の中で、「思っていた以上に感服しました」との感想を述べており、西郷が斉彬の英明さに感動を覚えた様子が分かります。