歴史秘話ヒストリア「三十三間堂 国宝大移動 よみがえる平安の祈り」★1
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千体もの千手観音像が金色に輝く京都・三十三間堂。去年行われた国宝仏像群の歴史的大移動に密着。850年の時を超え、乱世を生きた後白河上皇の祈りがよみがえる! >>775
ほんまもんの大天狗は兄の崇徳さんの方だけどな
太平記でも断章に出てきて大暴れしてる >>802
そら東福寺だろうけど…
人を観に行くようなもんだろうね >>792
もともと上皇は陛下と呼ばんからなー
院とかで呼称されてたからな
上皇っ太上天皇の略称なのに
令和から上皇が正式名称になってしまった >>818
あれはもっと後の15世紀末の応仁の乱直後くらい そりゃ御所の外が羅生門状態の一方、後白河は食い物にも困らず歌を歌って優雅な生活 大河ドラマ 清盛 面白かった
なんであんなに評判が悪いのか 上皇の立場やら呼称やらは、いかにも日本的な、悪い意味ではなく「いいかげん」なものだからな
厳密に規定しようとしていったら、日本が崩壊してた 詩歌ったり寺作る前にもっとやることがあるような気がする >>745
年末の大原三千院
人がほとんどいないから風情がある 平清盛って面白かったよな
当時はめちゃくちゃ叩かれたけど俺は大好きで毎週見てたわ >>877
メロディは記録してないので不明(´・ω・`) この人悪いイメージしかなかったけどいい人だったんだ >>886
いだてんみたいに好みめっちゃ分かれるからな >>872
コメは麦みたいに撒いても実らんぞ(揚げ足取り 本当に手が千本あるタイプの千手観音もあるよね
そっちのが好き 文化人としてはそれりでも為政者としては大概だからな
それでも策士としては優秀だから困りもの
清盛・義仲・義経・頼朝らそうそうたる面々を手玉に取ったのは後白河だけだしな >>876
天皇家を「王家」といったことに
ケチがついたのがケチのつきはじめ なお、現実的な救済策は何もせず、こういう「仏像作って祈る」だけだったという
(この当時『政治』とはそういうものであり、ひたすら祈り、寺に寄進することが『政治に熱心』ということだった
クソ時代) >>842
ほっておいても混むからなあ
この前、地主神社が清水寺本堂経由でしか行けなくなったのも悲しい >>862
流石に源平合戦が長引いたときは
京に全然お米来なくていいからお前らはやく戦争終われ!という状況だったとか >>912
物を知らない某平民がグチグチ言ってたけど当時はそういう呼び方していたので間違いではない >>887
けど「院」ってお坊さんの敬称でしょ
何とか院って戒名だし >>669
街中にある城は基本平城だから、天守はおろか石垣も土塁も残ってなくて門が精々だとどうしてもねー
やっぱり堀、石垣、天守の三点セットで見れないとがっかりするよね
三点セットで見た場合
https://i.imgur.com/d60gMhF.jpg
天守だけ見た場合
https://i.imgur.com/1bXuD4j.jpg 1000の手を持つ観音様が1000体あって1つの手が1000人を救うから
日本人が10億人になるまでは大丈夫だな >>766
>>801
必ずしも売春婦ではないらしいが
渡り巫女(歩き巫女)は、祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。
その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとされる[6]。旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、
必ずしも流浪していたわけではない[7]ので後に寺社の「お抱え」となる集団もあり、男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。
この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨をともにしたといわれる。また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいた。 >>887
僧籍に入らんと院とは呼べないんじゃ無いの?
勘違いかもしれんが レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。