京が焼け野原になったのは『応仁の乱』ではなく比叡山延暦寺が起こした『天文法華の乱』のせい

天文5年(1536年)2月(旧暦)、法華衆は比叡山延暦寺に対して宗教問答をすることを呼びかけた。
延暦寺の僧侶が日蓮宗の一般宗徒に論破されたことが噂で広まると、面目を潰されたと感じた延暦寺は日蓮宗が「法華宗」を名乗るのを止めるよう、室町幕府に裁定を求めた。
だが、幕府は建武元年(1334年)に下された後醍醐天皇の勅許を証拠にした日蓮宗の勝訴とし、延暦寺はこの裁判でも敗れた。

同年7月(旧暦)、延暦寺の僧兵集団が法華衆の撃滅へと乗り出した。延暦寺全山の大衆が集合し、京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して、延暦寺の末寺になり上納金を払うように迫った。日蓮宗側は延暦寺のこうした要求を拒否。
要求を拒否された延暦寺は朝廷や幕府に法華衆討伐の許可を求め、越前の大名・朝倉孝景を始め、敵対関係にあった他宗派の本願寺・興福寺・園城寺・東寺などにまで協力を求めた。いずれも延暦寺への援軍は断ったが、中立を約束した。
延暦寺は近江の大名・六角定頼の援軍を得ると、7月23日に延暦寺・六角勢が総勢6万人を動員して京都市中に押し寄せ、法華衆2万と交戦した。

延暦寺・六角勢は法華衆に勝利し、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる人々を殺害した。
さらに延暦寺・六角勢が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった。