>>459
本来、皇后の定員は1名であったが、永祚2年(990年)、一条天皇が藤原定子を皇后に冊立するにあたり、すでに円融天皇(既に退位して太上天皇)の皇后(中宮)として藤原遵子が在位していたにかかわらず、先帝の皇后と今上の皇后は併存しうるものとして、2人の皇后の並立が強行されて以来、皇后は同時に2人まで冊立することができるようになった。
両者を区別するため、遵子には中宮職から皇后宮職を付置して遵子を「皇后宮」と称し、定子には中宮職を付置して定子を「中宮」と称した。

そうです(´・ω・)