まひろの高階氏 
国司氏  ●輪違い/七宝に反り花角* ●高階氏高氏流   *花輪違いに反り花角ともいう。
 国司氏は、足利尊氏の執事として知られる高氏の一族である。高氏は『尊卑分脈』によれば、高階氏流となっている。
高階成佐より六代目の惟長は源平合戦に際して源氏に味方し、寿永三年(1184)二月の「一の谷の合戦」で活躍した。その軍功により、陸奥国信夫郡を与えられて地頭職となった。惟長の室は毛利氏の先祖で、鎌倉幕府の初代政所別当として幕政に重きをなした大江広元の娘であった。
 鎌倉時代、高氏は足利氏に仕えるようになり、足利氏の根本被官として代々足利家の執事を務め、その家政全般を統括していた。元弘の変(1331)から南北朝の動乱において、高一族は尊氏に仕えて各地の合戦に功があり、幕府内に勢力を築き、一族で河内・武蔵ほか十数ケ国の守護を歴任した。
加えて、師直が引付頭人、師泰が侍所頭人、師冬が鎌倉府執事を務めるなど、幕府の要職に就任している。
慶長五年(1600)の「関ヶ原の合戦」で敗れた毛利氏は、中国の覇者の座から周防・長門の二国に減封され、広島から萩へと移住した。国司氏も毛利氏に従って萩に移り、以後宗家は長州藩寄組に列し、一族も繁栄して近世を生き抜いた。
 後裔に、幕末の当主萩藩家老の国司信濃親相が出た。親相は文久三年(1863)、赤間関の攘夷戦で諸隊を督戦し、さらに元治元年(1864)の「禁門の変」でも一軍の将として出陣した。
しかし、敗れて帰国後におきた第一次幕長戦争で、責任をとって益田右衛門佐・福原越後の二家老とともに自刃した。