[総合] 2025年04月02日 午後10:00 ~ 午後10:45 (45分)
幕末の指導者、吉田松陰。明治維新のリーダーを数多く育て上げた「教育力」の秘密に迫るため、山口・萩で徹底調査!最新データサイエンスで松陰が残した言葉を解析すると、教え子たちの才能をぐんぐん伸ばした教育術の秘密が見えてきた。今回、松陰の言葉に大きな影響を受けたという、栗山英樹さん、山崎怜奈さんに特別インタビューを実施。時代を超えて支持される松陰の魅力を深掘り。大谷翔平選手の二刀流を支えたある言葉とは?
【司会】佐藤二朗,片山千恵子,【出演】多摩大学客員教授…河合敦,栗山英樹,山崎怜奈,【リポーター】秋鹿真人
歴史探偵 吉田松陰の教育力
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2025/04/02(水) 19:03:05.80ID:ZlQVtGRN
775公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:45:56.14ID:9/NKcwAO >>710
採算度外視すれば金山はあるけど鉱毒問題が起きかねないから地元住人は再採掘には反対している
採算度外視すれば金山はあるけど鉱毒問題が起きかねないから地元住人は再採掘には反対している
776公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:46:00.69ID:pNWIlTb5777公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:46:02.77ID:lIhIuk6o780公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:46:13.25ID:aWOFceM9 >>753
イメージにぴったんこなのに勿体ない
イメージにぴったんこなのに勿体ない
781公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:46:14.96ID:42BSea4F >>752 略年譜 幼年〜京都・江戸遊学〜有終館学頭 時代
文化2年(1805) 2月21日、備中松山領阿賀郡西方村(現・高梁市中井町西方)に父五郎吉、母梶(かぢ 本姓西谷氏)の長男として生れる。諱(いみな)は球、字(あざな)は琳卿、通称は安五郎、幼名は阿璘(ありん)、号は方谷。後、弟平人、妹美知が生れる。
文化5年(1808) 母梶から文字を習う。木山神社(現・真庭市)の拝殿で揮毫を披露する。
文化6年(1809) 新見藩儒丸川松隠の門に入る。文化7年(1810) 新見六代藩主関長輝の前で揮毫を披露する。 文政元年(1818) 母梶が亡くなる。40歳。父、継母近(本姓西谷氏)と再婚。
文政2年(1819) 父五郎吉が亡くなる。 文政3年(1820) 親族の相談によって、方谷が西方の実家を継ぐ。これより、家業と勉学に励む。
文政8年(1825) 備中松山藩主板倉勝職(かつつね)から二人扶持を賜り、学問所での修行を許される。
文政10年(1827) 春、京都へ遊学し、丸川松隠の旧知である寺島白鹿に学ぶ。年末に帰郷する。
文政12年(1829) 再び京都へ遊学し、寺島白鹿に学ぶ。八人扶持を賜り、中小姓格に上り、藩校有終館会頭を命じられる。
文化2年(1805) 2月21日、備中松山領阿賀郡西方村(現・高梁市中井町西方)に父五郎吉、母梶(かぢ 本姓西谷氏)の長男として生れる。諱(いみな)は球、字(あざな)は琳卿、通称は安五郎、幼名は阿璘(ありん)、号は方谷。後、弟平人、妹美知が生れる。
文化5年(1808) 母梶から文字を習う。木山神社(現・真庭市)の拝殿で揮毫を披露する。
文化6年(1809) 新見藩儒丸川松隠の門に入る。文化7年(1810) 新見六代藩主関長輝の前で揮毫を披露する。 文政元年(1818) 母梶が亡くなる。40歳。父、継母近(本姓西谷氏)と再婚。
文政2年(1819) 父五郎吉が亡くなる。 文政3年(1820) 親族の相談によって、方谷が西方の実家を継ぐ。これより、家業と勉学に励む。
文政8年(1825) 備中松山藩主板倉勝職(かつつね)から二人扶持を賜り、学問所での修行を許される。
文政10年(1827) 春、京都へ遊学し、丸川松隠の旧知である寺島白鹿に学ぶ。年末に帰郷する。
文政12年(1829) 再び京都へ遊学し、寺島白鹿に学ぶ。八人扶持を賜り、中小姓格に上り、藩校有終館会頭を命じられる。
782公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:46:21.59ID:Tax4GzPE 最後、教育者としての松陰は無視したな
結局、愛国反対のプロパガンダに使われた
NHKの番組だからしょうがないか
結局、愛国反対のプロパガンダに使われた
NHKの番組だからしょうがないか
783公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:46:39.89ID:9/NKcwAO >>763
志賀親次
志賀親次
784公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:46:49.51ID:ESBWHVaF >>744
そのソースも小説とか風説だったりなw
そのソースも小説とか風説だったりなw
785公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:47:11.07ID:1ta1+/KX 楠木正儀ってどれくらい知名度あるかな
知ってる日本人どんくらいおりゅ
知ってる日本人どんくらいおりゅ
786公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:47:31.59ID:9/NKcwAO >>761
前にヒストリアで特集された
前にヒストリアで特集された
787公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:47:41.18ID:ESBWHVaF >>749
取り込まれたような動きっていうのが、お前の主観にすぎないしなw
取り込まれたような動きっていうのが、お前の主観にすぎないしなw
788公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:47:44.65ID:rJpf6FX2 お札にもなったことがある楠木正成
789公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:47:54.56ID:lScjBBok >>785
南北朝オタ界隈では評価高い人だ
南北朝オタ界隈では評価高い人だ
790公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:48:14.01ID:4lJn70oF 安倍や麻生が総理大臣勤めてた事実から、いまだに薩長閥あるのかなあと思ってしまう
795公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:50:58.77ID:ESBWHVaF なんか幕末の話をするときに、安易に「薩長」と言うのやめたらいいのにな
それ「長土」だろと思うことがしばし
佐幕びいきは、幕府内で内輪もめしてただけの案件でも「薩長のせいだ」と言い出すし
それ「長土」だろと思うことがしばし
佐幕びいきは、幕府内で内輪もめしてただけの案件でも「薩長のせいだ」と言い出すし
796公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:51:31.11ID:9/NKcwAO797公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:51:56.62ID:BzpPDuAI 松陰が他の尊王攘夷論者と異なるのは「草莽崛起」と「朝鮮満州の領有」を唱えたことだよ
せめて草莽崛起だけでも取り上げてほしかった
せめて草莽崛起だけでも取り上げてほしかった
798公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:52:07.38ID:lIhIuk6o799公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:52:55.89ID:ESBWHVaF >>794
ちょっとしか興味がなく、ちゃんと史料読まずに小説とかを鵜呑みにするから理解がそこで止まるww
フランスの言いなりの徳川幕府と違って、薩摩はイギリス一国だけに依存しないようにベルギーを当て馬にしたりいろいろやってるぜ
ちょっとしか興味がなく、ちゃんと史料読まずに小説とかを鵜呑みにするから理解がそこで止まるww
フランスの言いなりの徳川幕府と違って、薩摩はイギリス一国だけに依存しないようにベルギーを当て馬にしたりいろいろやってるぜ
800公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:56:18.11ID:Nh4wNqD9801公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 22:58:44.53ID:42BSea4F 文政6年〜元治元年 1823-1864年 周布政之助は、村田清風の流れを汲む政治家です。激動の幕末期、長州藩の実質的指導者として、難局の舵取りを行いました。また、イギリスへ五人の留学生「長州五傑」(長州ファイブ) を送り出し、日本の近代産業の発展にもつなげています。
幕末から明治維新において、大きな働きをなした長州藩。しかし激動の時代に藩内も大きく揺れ動き、戸惑い、争い、苦悩していました。このような困難な時代の中、藩の舵取りを行った一人が周布政之助でした。
明倫館に学ぶ 志を磨く 周布政之助は阿武郡萩城下江向に周布兼正の第5子として生まれました。名は兼翼、字は公輔、通称を政之助、号を麻田、観山、痩梅、沢江漁夫といいました。
政之助が幼少のころ、父兼正、長兄兼親が相次いで死去、また次男、三男も他家を継いでおり、四男も父より以前に死去、一人の姉も嫁いでいたので、末っ子の政之助は母と二人暮らしになりました。
周布家の家督を親戚一同で協議し、政之助に兼正の名跡継承を藩に申し出、周布家の継承を許されました。この時、禄高151石を減じて68石となりました。その後、母は政之助とともに母の実家である村田家を頼って、大津郡三隅村浅田に移り住みます。清風はこの村田家の分家で、政之助とは村田本家を通じて親戚の関係でした。
天保11年(1840)18歳で明倫館に入学し、文武の修業に励み廟司(館内の孔子などの聖賢の廟を管理する役で、優秀な生徒が任命される)に任命されました。政之助は若いころから藩政に関心を抱き、明倫館在学中に同志を募り「嚶鳴社」を結成し、時事問題への対策を討議するなど、村田清風の意思を継ぐ若手政治家として成長します。
幕末から明治維新において、大きな働きをなした長州藩。しかし激動の時代に藩内も大きく揺れ動き、戸惑い、争い、苦悩していました。このような困難な時代の中、藩の舵取りを行った一人が周布政之助でした。
明倫館に学ぶ 志を磨く 周布政之助は阿武郡萩城下江向に周布兼正の第5子として生まれました。名は兼翼、字は公輔、通称を政之助、号を麻田、観山、痩梅、沢江漁夫といいました。
政之助が幼少のころ、父兼正、長兄兼親が相次いで死去、また次男、三男も他家を継いでおり、四男も父より以前に死去、一人の姉も嫁いでいたので、末っ子の政之助は母と二人暮らしになりました。
周布家の家督を親戚一同で協議し、政之助に兼正の名跡継承を藩に申し出、周布家の継承を許されました。この時、禄高151石を減じて68石となりました。その後、母は政之助とともに母の実家である村田家を頼って、大津郡三隅村浅田に移り住みます。清風はこの村田家の分家で、政之助とは村田本家を通じて親戚の関係でした。
天保11年(1840)18歳で明倫館に入学し、文武の修業に励み廟司(館内の孔子などの聖賢の廟を管理する役で、優秀な生徒が任命される)に任命されました。政之助は若いころから藩政に関心を抱き、明倫館在学中に同志を募り「嚶鳴社」を結成し、時事問題への対策を討議するなど、村田清風の意思を継ぐ若手政治家として成長します。
802公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 23:04:10.04ID:42BSea4F >>801 藩政改革 時代に挑む 村田清風の志をうけて、政之助は藩財政立て直し、兵制の改革に尽力しましたが、財政及び兵制の改革は、急激であったこともあり、厳しすぎる印象は免れず、武士、商人など藩内の反発が大きく、政之助への風当たりは日増しに強まり、安政2年(1855)謹慎となり、失脚してしまいます。
失脚した政之助は、安政4(1857)年2月、先大津の代官に任じられます。当時、捕鯨で知られた向津具村川尻の不漁続きによる困窮を救うなど、大きな事績を残していますが、同年9月には再び藩の要職に復帰します。
安政5年(1858)右筆役に任ぜられて藩政の中心に復帰しますが、激動の時代が始まります。先の見えない状況下、現実的な対応と、吉田松陰や久坂玄瑞らの過激な理想論との板ばさみの中で、政之助は藩の舵取りに苦悩します。
政之助は、最も松陰を理解し、親しく議論を交わした仲でしたが、アメリカへの密航を企てたことで、松陰は野山獄へ投獄されます。その後松陰は一旦、実家に謹慎処分となりましたが、
大老井伊直弼が日米通商条約を調印する頃から、松陰の言動が過激になったため、ついに政之助は安政5年(1858)12月26日松陰を再び野山獄に投獄。その後、松陰は江戸へ送られ、安政6年(1859)10月27日、処刑されました。
長州藩は文久元年(1861)長井雅楽の「航海遠略策」を藩の方針とし、幕府と朝廷の調整役として中央政界に進出します。
しかし国元の考えとは違い、江戸藩邸では久坂玄瑞ら書生たちが、諸藩の尊攘派と連携し、過激な攘夷論へと動き出していました。松陰門下の久坂玄瑞らは長井雅楽を幕府擁護者とみて、敵視していました。政之助は幕府への不信感が強く、尊攘派と共感する部分もありました。
同時に書生たちを有為の人材として惜しみ、保護します。
失脚した政之助は、安政4(1857)年2月、先大津の代官に任じられます。当時、捕鯨で知られた向津具村川尻の不漁続きによる困窮を救うなど、大きな事績を残していますが、同年9月には再び藩の要職に復帰します。
安政5年(1858)右筆役に任ぜられて藩政の中心に復帰しますが、激動の時代が始まります。先の見えない状況下、現実的な対応と、吉田松陰や久坂玄瑞らの過激な理想論との板ばさみの中で、政之助は藩の舵取りに苦悩します。
政之助は、最も松陰を理解し、親しく議論を交わした仲でしたが、アメリカへの密航を企てたことで、松陰は野山獄へ投獄されます。その後松陰は一旦、実家に謹慎処分となりましたが、
大老井伊直弼が日米通商条約を調印する頃から、松陰の言動が過激になったため、ついに政之助は安政5年(1858)12月26日松陰を再び野山獄に投獄。その後、松陰は江戸へ送られ、安政6年(1859)10月27日、処刑されました。
長州藩は文久元年(1861)長井雅楽の「航海遠略策」を藩の方針とし、幕府と朝廷の調整役として中央政界に進出します。
しかし国元の考えとは違い、江戸藩邸では久坂玄瑞ら書生たちが、諸藩の尊攘派と連携し、過激な攘夷論へと動き出していました。松陰門下の久坂玄瑞らは長井雅楽を幕府擁護者とみて、敵視していました。政之助は幕府への不信感が強く、尊攘派と共感する部分もありました。
同時に書生たちを有為の人材として惜しみ、保護します。
803公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 23:05:34.71ID:mong72q7 愛国=国民を幸せにすることになってなかったのが残念で悲しいね
今の特権化して贅沢して堕落してる皇族は松陰先生が一番憎く打倒したい存在じゃないか?
そういう身分制や特権を廃止したいという強い思いが松陰はじめ志士の原動力だったはず
今の特権化して贅沢して堕落してる皇族は松陰先生が一番憎く打倒したい存在じゃないか?
そういう身分制や特権を廃止したいという強い思いが松陰はじめ志士の原動力だったはず
804公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 23:23:02.53ID:BzpPDuAI 松陰は草莽崛起を唱える一方で天皇を絶対的に崇拝していた
松陰にとっては草莽崛起と天皇崇拝は両立するし、両立させなければならないものだよ
松陰にとっては草莽崛起と天皇崇拝は両立するし、両立させなければならないものだよ
805公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 23:28:37.22ID:mong72q7 松陰がもっと遅くに生まれて共産主義を学んでたらその後の革命家のように
共産主義者になってただろうね
共産主義者になってただろうね
806公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 23:29:45.72ID:ND/BvC4u 所長、花燃ゆに出てたんだけど、触れなかったね。確か、伝馬町の牢名主の役で留魂録を松陰から受け取り、後に野村靖に渡す役。
807公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 23:35:42.19ID:XTAnEYqU 北一輝と同じくテロ首謀者ですし
808公共放送名無しさん
2025/04/02(水) 23:40:50.20ID:VRwbOQ7V809公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 00:43:47.27ID:BVt5vai9 あゆみ 旧三井物産の創立と初代社長・益田孝
27歳の青年社長と16人の精鋭 旧三井物産初代社長 益田孝旧三井物産初代社長 益田孝
益田孝は幕府陸軍の騎兵頭並(騎兵中佐)で1868年の明治維新を迎えた。英語力には自信があった。日本語の英語式転写法(ローマ字)を開発したジェームス・カーティス・ヘボンによるヘボン塾で英語を学んだ後、米国公使館勤務や欧米使節団随行で英語力に磨きを掛け、幕府外国方通弁御用に採用された。
幕府陸軍勤務を経て、明治維新後は外国商館向け貿易会社を設立したり、請われて外国商館にも勤めるなど、貿易実務の経験も積んだ。
そんな益田に注目したのが、時の実力者・井上馨である。彼は自らが創業した貿易会社・先収会社の副社長として益田を迎え入れた。しかし、1876年の井上の入閣により、先収会社は解散。
同社事業に興味をもっていた三井組の大番頭・三野村利左衛門と井上、益田の三者会談の末、旧三井物産<注>の創立が決定した。
1876年、創立時の旧三井物産社屋1876年、創立時の旧三井物産社屋 1876年7月1日に誕生した旧三井物産は職員16名、指揮を執るのは27歳の青年社長・益田孝だ。今でいうベンチャー企業である。新会社はその定款で、「貿易」を本務とした。益田は「三井物産会社を創立したのは、大いに貿易をやろうというのが眼目であった。金が欲しいのではない、仕事がしたいと思ったのだ」と振り返っている。
また志として「眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく、遠大な希望を抱かれること望む」と述べている。
旧三井物産は、同年11月に三井組国産方(三井組の貿易部門)を併合し、職員70名余りに拡大。1880年までに、国内支店のみならず、上海、パリ、香港、ニューヨーク、ロンドンなど海外にも支店を開設し、事業を拡大していった。
一方、益田は、1909年に三井傘下事業を統轄する三井合名会社の設立に携わるなど、多数の会社の設立に貢献、公共事業や商業教育にも力を注いだ。また、私財を投じて、情報重視と商業知識の普及を目的に『中外物価新報』(『日本経済新聞』の前身)という新聞を創刊している。
27歳の青年社長と16人の精鋭 旧三井物産初代社長 益田孝旧三井物産初代社長 益田孝
益田孝は幕府陸軍の騎兵頭並(騎兵中佐)で1868年の明治維新を迎えた。英語力には自信があった。日本語の英語式転写法(ローマ字)を開発したジェームス・カーティス・ヘボンによるヘボン塾で英語を学んだ後、米国公使館勤務や欧米使節団随行で英語力に磨きを掛け、幕府外国方通弁御用に採用された。
幕府陸軍勤務を経て、明治維新後は外国商館向け貿易会社を設立したり、請われて外国商館にも勤めるなど、貿易実務の経験も積んだ。
そんな益田に注目したのが、時の実力者・井上馨である。彼は自らが創業した貿易会社・先収会社の副社長として益田を迎え入れた。しかし、1876年の井上の入閣により、先収会社は解散。
同社事業に興味をもっていた三井組の大番頭・三野村利左衛門と井上、益田の三者会談の末、旧三井物産<注>の創立が決定した。
1876年、創立時の旧三井物産社屋1876年、創立時の旧三井物産社屋 1876年7月1日に誕生した旧三井物産は職員16名、指揮を執るのは27歳の青年社長・益田孝だ。今でいうベンチャー企業である。新会社はその定款で、「貿易」を本務とした。益田は「三井物産会社を創立したのは、大いに貿易をやろうというのが眼目であった。金が欲しいのではない、仕事がしたいと思ったのだ」と振り返っている。
また志として「眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく、遠大な希望を抱かれること望む」と述べている。
旧三井物産は、同年11月に三井組国産方(三井組の貿易部門)を併合し、職員70名余りに拡大。1880年までに、国内支店のみならず、上海、パリ、香港、ニューヨーク、ロンドンなど海外にも支店を開設し、事業を拡大していった。
一方、益田は、1909年に三井傘下事業を統轄する三井合名会社の設立に携わるなど、多数の会社の設立に貢献、公共事業や商業教育にも力を注いだ。また、私財を投じて、情報重視と商業知識の普及を目的に『中外物価新報』(『日本経済新聞』の前身)という新聞を創刊している。
810公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 00:46:49.44ID:BVt5vai9 三井史を彩る人々 三野村利左衛門 幕末の三井を救った男 執筆・監修:三友新聞社 / 画像提供:三井文庫
三野村利左衛門(1821〜1877) 幕府御用金の減免に成功 佐幕か勤皇、どちらにつくか誰もが大局を見極めていた幕末、三井の窮状を救い、幕末維新期の「三井の大番頭」として活躍したのが一介の商人であった三野村利左衛門である。
幕府御用金の減額から明治新政府への資金援助、呉服業の分離、三井銀行・旧三井物産の創設など三野村が三井に残した功績は計り知れない。
三野村の出自は正確な史料としては残ってはないが、本人の口述などによると、文政4年(1821)、出羽庄内藩水野家の家臣・関口彦右衛門為芳の3男として生まれたとされる。7歳の時に父が浪人、以来諸国を流浪し、苦難に満ちた少年時代を送った。
父の死後は江戸に出て、深川の乾物問屋などを経て、幕末に名を残した勘定奉行・小栗上野介の下へ奉公。後に金平糖の行商で得た資金を元手に両替商を営む。
その頃、三井では度重なる莫大な幕府御用金(献金)の重圧に苦慮しており、御用金を減免・分割せねば経営が立ち行かないほどの状態だった。その金額は元治元年(1864)から慶応2年(1866)の3年間・5回で合計266万両にも及んだ。
三野村の機敏な仕事ぶりは出入りしていた三井両替店の主筋までその名が知られており、勘定奉行の小栗とも知己だったことから三野村は三井家と幕府との交渉役として抜擢される。
三野村は、元勘定組頭・小田信太郎を通じて小栗を説得、嘆願の末、御用金150万両を3分の1の50万両に減額し、さらに18万両に減らした上、3年にわたる分納という大成果を上げることに成功した。
このような交渉が成立した背景には、三井のような大商人に対し過度の御用金を課して弱らせるより、育成して末長く幕府経済の支柱にしようと考えたと思われる。その証拠にこの後、幕府は貿易関税収入の一部を商品担保貸し付けに回すという商務を三井に担当させている。
三井は大元方直属の幕府関係の御用金業務を一手に取り仕切る「三井御用所」を設置、三野村はそこの責任者となる。三井の佐幕から勤皇への方針転換にも大きな役割を果たした。
三野村利左衛門(1821〜1877) 幕府御用金の減免に成功 佐幕か勤皇、どちらにつくか誰もが大局を見極めていた幕末、三井の窮状を救い、幕末維新期の「三井の大番頭」として活躍したのが一介の商人であった三野村利左衛門である。
幕府御用金の減額から明治新政府への資金援助、呉服業の分離、三井銀行・旧三井物産の創設など三野村が三井に残した功績は計り知れない。
三野村の出自は正確な史料としては残ってはないが、本人の口述などによると、文政4年(1821)、出羽庄内藩水野家の家臣・関口彦右衛門為芳の3男として生まれたとされる。7歳の時に父が浪人、以来諸国を流浪し、苦難に満ちた少年時代を送った。
父の死後は江戸に出て、深川の乾物問屋などを経て、幕末に名を残した勘定奉行・小栗上野介の下へ奉公。後に金平糖の行商で得た資金を元手に両替商を営む。
その頃、三井では度重なる莫大な幕府御用金(献金)の重圧に苦慮しており、御用金を減免・分割せねば経営が立ち行かないほどの状態だった。その金額は元治元年(1864)から慶応2年(1866)の3年間・5回で合計266万両にも及んだ。
三野村の機敏な仕事ぶりは出入りしていた三井両替店の主筋までその名が知られており、勘定奉行の小栗とも知己だったことから三野村は三井家と幕府との交渉役として抜擢される。
三野村は、元勘定組頭・小田信太郎を通じて小栗を説得、嘆願の末、御用金150万両を3分の1の50万両に減額し、さらに18万両に減らした上、3年にわたる分納という大成果を上げることに成功した。
このような交渉が成立した背景には、三井のような大商人に対し過度の御用金を課して弱らせるより、育成して末長く幕府経済の支柱にしようと考えたと思われる。その証拠にこの後、幕府は貿易関税収入の一部を商品担保貸し付けに回すという商務を三井に担当させている。
三井は大元方直属の幕府関係の御用金業務を一手に取り仕切る「三井御用所」を設置、三野村はそこの責任者となる。三井の佐幕から勤皇への方針転換にも大きな役割を果たした。
811公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 05:29:14.59ID:2kJifl6C 吉田松陰
813公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 09:28:49.43ID:7WeFooAn 椋梨 藤太(むくなし とうた)は、日本の武士・長州藩士。長門国の萩に生まれた。諱は景治。
小早川氏庶流で、小早川隆景死後に毛利氏家臣となった椋梨氏の分家出身。家格は遠近附士で禄高は49石。嘉永3年(1851年)に密用方から政務座役に抜擢され、長州藩の重役になる。長州藩校、明倫館に深く関わっている。幕末の長州藩において、中川宇右衛門とともに保守佐幕派(俗論派)の代表的人物であった。長州藩の改革派(のち、正義派)の村田清風・周布政之助・桂小五郎らの陣営と藩内の主導権争いを繰り広げた。
嘉永6年(1853年)に政務座役を辞任させられ、周布政之助に実権を奪われるが、安政2年(1855年)に再び実権を掌握した。安政5年(1858年)、熊毛郡代官に転じ、万延元年(1860年)までつとめた。
元治元年7月19日(1864年8月20日)禁門の変で暴走した正義派の壊滅後、俗論派として、同月から始まる第一征長後では幕府への恭順を訴え、周布政之助を失脚させ、奇兵隊はじめ諸隊へ解散令を出し、益田親施・福原元|・国司親相三家老を切腹させて、幕府へ謝罪。そして政敵である周布を自害へと追い込み、正義派の面々を大量に処刑していった。
しかし、この粛清に危機感を募らせた高杉晋作・伊藤俊輔らが元治元年12月15日(1865年1月12日)に功山寺で決起(功山寺挙兵)、諸隊を編成して下関から萩へと進撃し、慶応元年(1865年)1月の絵堂の戦いによって形勢は逆転、但馬に潜伏していた桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、武備恭順・尊王・破約攘夷・倒幕路線に統一するに及び椋梨藤太は失脚、同年2月に岩国藩主・吉川経幹を頼って逃亡した。
椋梨藤太は逃亡したものの、海が荒れたため行き先を変更せざるを得なくなり、最終的には津和野藩領内で捕らえられた。そして5月、息子の中井栄次郎らとともに萩の野山獄において処刑された。
討幕派側の取調べの際に、「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と懇願しており、「斬首」の形で死んだのは椋梨のみであった。ただし、実際には同時期に中川宇右衛門も切腹させられているほか、小倉五右衛門・岡本吉之進もその際に自決している。
小早川氏庶流で、小早川隆景死後に毛利氏家臣となった椋梨氏の分家出身。家格は遠近附士で禄高は49石。嘉永3年(1851年)に密用方から政務座役に抜擢され、長州藩の重役になる。長州藩校、明倫館に深く関わっている。幕末の長州藩において、中川宇右衛門とともに保守佐幕派(俗論派)の代表的人物であった。長州藩の改革派(のち、正義派)の村田清風・周布政之助・桂小五郎らの陣営と藩内の主導権争いを繰り広げた。
嘉永6年(1853年)に政務座役を辞任させられ、周布政之助に実権を奪われるが、安政2年(1855年)に再び実権を掌握した。安政5年(1858年)、熊毛郡代官に転じ、万延元年(1860年)までつとめた。
元治元年7月19日(1864年8月20日)禁門の変で暴走した正義派の壊滅後、俗論派として、同月から始まる第一征長後では幕府への恭順を訴え、周布政之助を失脚させ、奇兵隊はじめ諸隊へ解散令を出し、益田親施・福原元|・国司親相三家老を切腹させて、幕府へ謝罪。そして政敵である周布を自害へと追い込み、正義派の面々を大量に処刑していった。
しかし、この粛清に危機感を募らせた高杉晋作・伊藤俊輔らが元治元年12月15日(1865年1月12日)に功山寺で決起(功山寺挙兵)、諸隊を編成して下関から萩へと進撃し、慶応元年(1865年)1月の絵堂の戦いによって形勢は逆転、但馬に潜伏していた桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、武備恭順・尊王・破約攘夷・倒幕路線に統一するに及び椋梨藤太は失脚、同年2月に岩国藩主・吉川経幹を頼って逃亡した。
椋梨藤太は逃亡したものの、海が荒れたため行き先を変更せざるを得なくなり、最終的には津和野藩領内で捕らえられた。そして5月、息子の中井栄次郎らとともに萩の野山獄において処刑された。
討幕派側の取調べの際に、「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と懇願しており、「斬首」の形で死んだのは椋梨のみであった。ただし、実際には同時期に中川宇右衛門も切腹させられているほか、小倉五右衛門・岡本吉之進もその際に自決している。
814公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 09:34:41.61ID:7WeFooAn 国司氏 ●輪違い/七宝に反り花角* ●高階氏高氏流
*花輪違いに反り花角ともいう。
国司氏は、足利尊氏の執事として知られる高氏の一族である。高氏は『尊卑分脈』によれば、高階氏流となっている。高階成佐より六代目の惟長は源平合戦に際して源氏に味方し、寿永三年(1184)二月の「一の谷の合戦」で活躍した。
その軍功により、陸奥国信夫郡を与えられて地頭職となった。惟長の室は毛利氏の先祖で、鎌倉幕府の初代政所別当として幕政に重きをなした大江広元の娘であった。
鎌倉時代、高氏は足利氏に仕えるようになり、足利氏の根本被官として代々足利家の執事を務め、その家政全般を統括していた。
元弘の変(1331)から南北朝の動乱において、高一族は尊氏に仕えて各地の合戦に功があり、幕府内に勢力を築き、一族で河内・武蔵ほか十数ケ国の守護を歴任した。
加えて、師直が引付頭人、師泰が侍所頭人、師冬が鎌倉府執事を務めるなど、幕府の要職に就任している。
*花輪違いに反り花角ともいう。
国司氏は、足利尊氏の執事として知られる高氏の一族である。高氏は『尊卑分脈』によれば、高階氏流となっている。高階成佐より六代目の惟長は源平合戦に際して源氏に味方し、寿永三年(1184)二月の「一の谷の合戦」で活躍した。
その軍功により、陸奥国信夫郡を与えられて地頭職となった。惟長の室は毛利氏の先祖で、鎌倉幕府の初代政所別当として幕政に重きをなした大江広元の娘であった。
鎌倉時代、高氏は足利氏に仕えるようになり、足利氏の根本被官として代々足利家の執事を務め、その家政全般を統括していた。
元弘の変(1331)から南北朝の動乱において、高一族は尊氏に仕えて各地の合戦に功があり、幕府内に勢力を築き、一族で河内・武蔵ほか十数ケ国の守護を歴任した。
加えて、師直が引付頭人、師泰が侍所頭人、師冬が鎌倉府執事を務めるなど、幕府の要職に就任している。
815公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 09:37:07.79ID:7WeFooAn >>814 元相は元就の嫡男隆元の守役をつとめ、隆元から「元」の一字を賜った。天文九年(1540)、尼子晴久が大軍を率いて郡山城を攻撃してきた。
この「郡山籠城戦」において、尼子氏と毛利氏が激突した青山土取場の戦いで元相は渡辺勝らとともに奮戦、尼子方の武将三十四人の頚を取る活躍を示した。同十一年、大内義隆が富田月山城攻めを計画、この陣に毛利氏ら安芸の国人領主らも参加した。
しかし、翌年、尼子方の反撃によって大内氏は敗北、撤退戦において元相は傷を負いながらも奮戦、無事帰還をはたしている。
天文十九年(1550)、五奉行制が整うとその一員となり、永禄三年(1560)には正親町天皇の即位料を調進する隆元の使者として上洛、将軍義輝より「槍の鈴」を免許された。
元相は永禄八年ごろまで奉行職をつとめ、同十年ごろに嫡男元武に奉行職を引き継いでいる。とはいえ、その後の元亀三年(1572)の毛利氏掟の制定に際して、奉行人の一人としてこれを確認したたことが知られる。
元武は輝元の守役をつとめ、毛利氏の重臣の一人として活躍した。天正十年(1582)、織田信長の部将であった羽柴秀吉と毛利軍が備中高松で対峙していたとき、「本能寺の変」が起こった。このとき、毛利氏は秀吉と和睦し、秀吉をして後顧の憂いをなさしめた。以後、毛利氏は信長後を受けて天下人となった秀吉と協調し、天下統一を果たした豊臣秀吉のおこした「朝鮮の役」にも従軍した。この陣に、元武も参加して渡海し軍功があった。
慶長五年(1600)の「関ヶ原の合戦」で敗れた毛利氏は、中国の覇者の座から周防・長門の二国に減封され、広島から萩へと移住した。国司氏も毛利氏に従って萩に移り、以後宗家は長州藩寄組に列し、一族も繁栄して近世を生き抜いた。
後裔に、幕末の当主萩藩家老の国司信濃親相が出た。親相は文久三年(1863)、赤間関の攘夷戦で諸隊を督戦し、さらに元治元年(1864)の「禁門の変」でも一軍の将として出陣した。
しかし、敗れて帰国後におきた第一次幕長戦争で、責任をとって益田右衛門佐・福原越後の二家老とともに自刃した。・2005年05月05日
この「郡山籠城戦」において、尼子氏と毛利氏が激突した青山土取場の戦いで元相は渡辺勝らとともに奮戦、尼子方の武将三十四人の頚を取る活躍を示した。同十一年、大内義隆が富田月山城攻めを計画、この陣に毛利氏ら安芸の国人領主らも参加した。
しかし、翌年、尼子方の反撃によって大内氏は敗北、撤退戦において元相は傷を負いながらも奮戦、無事帰還をはたしている。
天文十九年(1550)、五奉行制が整うとその一員となり、永禄三年(1560)には正親町天皇の即位料を調進する隆元の使者として上洛、将軍義輝より「槍の鈴」を免許された。
元相は永禄八年ごろまで奉行職をつとめ、同十年ごろに嫡男元武に奉行職を引き継いでいる。とはいえ、その後の元亀三年(1572)の毛利氏掟の制定に際して、奉行人の一人としてこれを確認したたことが知られる。
元武は輝元の守役をつとめ、毛利氏の重臣の一人として活躍した。天正十年(1582)、織田信長の部将であった羽柴秀吉と毛利軍が備中高松で対峙していたとき、「本能寺の変」が起こった。このとき、毛利氏は秀吉と和睦し、秀吉をして後顧の憂いをなさしめた。以後、毛利氏は信長後を受けて天下人となった秀吉と協調し、天下統一を果たした豊臣秀吉のおこした「朝鮮の役」にも従軍した。この陣に、元武も参加して渡海し軍功があった。
慶長五年(1600)の「関ヶ原の合戦」で敗れた毛利氏は、中国の覇者の座から周防・長門の二国に減封され、広島から萩へと移住した。国司氏も毛利氏に従って萩に移り、以後宗家は長州藩寄組に列し、一族も繁栄して近世を生き抜いた。
後裔に、幕末の当主萩藩家老の国司信濃親相が出た。親相は文久三年(1863)、赤間関の攘夷戦で諸隊を督戦し、さらに元治元年(1864)の「禁門の変」でも一軍の将として出陣した。
しかし、敗れて帰国後におきた第一次幕長戦争で、責任をとって益田右衛門佐・福原越後の二家老とともに自刃した。・2005年05月05日
816公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 09:45:48.78ID:7WeFooAn 毛利福原氏 ●酢漿草 ●大江姓長井氏族
福原氏は、毛利元春の五男広世が大江広元の次男時広を祖とする長井氏の養子となり、内部荘福原の鈴尾城に居城して在名を称したことに始まる。
大江広元は、文治元年(1185)、諸国に「守護」「地頭」を配して全国支配体制を強固にするように源頼朝に建策した。加えて、鎌倉幕府の創設、武家社会にふさわしい行政機構の整備に大きな役割を果たした。これら広元の功に対して頼朝は、置賜郡長井荘・村山郡寒河江荘などの地頭職を与えて報いた。
広元は寒河江荘を長男の親広、長井荘を二男の時広にそれぞれ分与した。かくして親広の子孫は寒河江氏を称し、時広は長井を称して長井氏の祖となったのである。
長井氏と毛利氏 承久三年(1221)、「承久の乱」が起ると、大江親広は朝廷方となったが、長井時広は幕府方に属した。乱後、政治の実権が執権北条氏にうつると、時広は幕府最高の職務である評定衆の一員となり、土肥実平が解任されたのちの備後守護にも任じられた。時広のあと備後守護職は、次男の泰重、その子頼重、そして貞重と受け継がれた。
泰重以来、長井氏は代々京都に出て六波羅評定衆をつとめ、泰重の弟泰茂、頼重の弟茂重、貞重の弟貞頼らも六波羅評定衆になっている。
その結果、備後の守護所のことは子弟・郎従に委ねることになったようだ。その結果、長井一族が備後に土着するようになったのである。ちなみに置賜郡長井荘は、時広の嫡子泰秀が継承し南北朝時代末期の元中二年(1385)、伊達宗遠によって滅ぼされるまで続いた。
長井泰秀のとき、「宝治合戦(1247)」が起り、一族の毛利季光は三浦氏に味方して敗れ、子息広光・親光・泰光らとともに戦死し、鎌倉の館と相模国毛利荘を失った。泰秀は北条氏に味方して鎌倉幕府内における地位を維持し、毛利氏の危機に際して従兄弟の毛利経光を保護し、越後国佐橋荘と安芸国吉田荘の地頭職の安堵をはかった。
この泰秀の懸命の奔走によって、毛利氏は本拠を相模から越後の佐橋荘に移し、幕府の実力者長井氏の庇護によって経光の流れが生き残れたのであった。
毛利広世が家督を継承 備後長井氏は鎌倉時代を通じて幕府内に重きをなしたが、鎌倉末期から南北朝期にかけての当主貞頼は足利尊氏に属して活躍した。その功によって建武二年(1335)播磨国浦上荘の地頭職を、暦応二年(1339)には越後国社荘および出雲国来次荘の地頭職を得た。
福原氏は、毛利元春の五男広世が大江広元の次男時広を祖とする長井氏の養子となり、内部荘福原の鈴尾城に居城して在名を称したことに始まる。
大江広元は、文治元年(1185)、諸国に「守護」「地頭」を配して全国支配体制を強固にするように源頼朝に建策した。加えて、鎌倉幕府の創設、武家社会にふさわしい行政機構の整備に大きな役割を果たした。これら広元の功に対して頼朝は、置賜郡長井荘・村山郡寒河江荘などの地頭職を与えて報いた。
広元は寒河江荘を長男の親広、長井荘を二男の時広にそれぞれ分与した。かくして親広の子孫は寒河江氏を称し、時広は長井を称して長井氏の祖となったのである。
長井氏と毛利氏 承久三年(1221)、「承久の乱」が起ると、大江親広は朝廷方となったが、長井時広は幕府方に属した。乱後、政治の実権が執権北条氏にうつると、時広は幕府最高の職務である評定衆の一員となり、土肥実平が解任されたのちの備後守護にも任じられた。時広のあと備後守護職は、次男の泰重、その子頼重、そして貞重と受け継がれた。
泰重以来、長井氏は代々京都に出て六波羅評定衆をつとめ、泰重の弟泰茂、頼重の弟茂重、貞重の弟貞頼らも六波羅評定衆になっている。
その結果、備後の守護所のことは子弟・郎従に委ねることになったようだ。その結果、長井一族が備後に土着するようになったのである。ちなみに置賜郡長井荘は、時広の嫡子泰秀が継承し南北朝時代末期の元中二年(1385)、伊達宗遠によって滅ぼされるまで続いた。
長井泰秀のとき、「宝治合戦(1247)」が起り、一族の毛利季光は三浦氏に味方して敗れ、子息広光・親光・泰光らとともに戦死し、鎌倉の館と相模国毛利荘を失った。泰秀は北条氏に味方して鎌倉幕府内における地位を維持し、毛利氏の危機に際して従兄弟の毛利経光を保護し、越後国佐橋荘と安芸国吉田荘の地頭職の安堵をはかった。
この泰秀の懸命の奔走によって、毛利氏は本拠を相模から越後の佐橋荘に移し、幕府の実力者長井氏の庇護によって経光の流れが生き残れたのであった。
毛利広世が家督を継承 備後長井氏は鎌倉時代を通じて幕府内に重きをなしたが、鎌倉末期から南北朝期にかけての当主貞頼は足利尊氏に属して活躍した。その功によって建武二年(1335)播磨国浦上荘の地頭職を、暦応二年(1339)には越後国社荘および出雲国来次荘の地頭職を得た。
817公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 09:48:40.91ID:7WeFooAn >>816 広俊のあとを継いだのは貞俊で、天文十九年(1550)、井上一族粛正直後に毛利家臣団全員が元就への忠誠を誓約した起請文の筆頭に署名している。
貞俊は元就から正直にして表裏なき人物であると信頼され、嫡男隆元の死後、吉川元春・小早川隆景らが毛利氏の政策決定に参画するようになると、せめて輝元が二十歳になるまではその後見となり、家中はもちろん、他所他国のことまで相談にのってほしい、という元就からの強い要請をうけた。
永禄十年(1567)、貞俊は元春・隆景とともに毛利家の首脳部を構成し、のち口羽通良を加えた四人で天正十二年(1584)頃まで輝元の領国支配を補佐した。
娘婿の口羽通良は吉川元春と行動を共にして主に山陰方面を担当したのに対し、貞俊は小早川隆景を補佐して主に山陽・瀬戸内方面の支配を担当した。文禄二年(1593)八月死去、享年八十二歳(七十五歳とする系図もある)であった。
貞俊の孫広俊は毛利輝元に仕えて篤い信頼を受け、萩藩の成立期に大きな活躍を示した。毛利氏は慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦」において西軍に味方したことで、戦後、防長二国に所領を削られ、徳川氏との関係も緊張が続いた。
そのような時代において、広俊は井原元以らとともに国元加判役となり、徳川氏との交渉の任にもあたった。毛利氏の困難な時期にあたって、広俊はよくその職務をまっとうし、元和八年(1622)嫡子元俊に家督を譲り隠居した。以後、福原氏は毛利氏の準一門として八千石を知行し、萩藩政で重要な役割を果たした。・2005年3月17日
長井氏の家紋 幕末の動乱期、萩藩の重臣に長井雅楽時庸が出た。長井雅楽は、文久元年(1861)航海遠略策を唱え、藩より公武間周旋を命じられ活躍、翌二年、中老格に列せられた。そして、同年三月、上京して正親町三条卿を経て朝廷へ建議書を提出したが、尊攘派の非難を浴び、翌月薩摩藩島津久光の上京によって京の形勢逆転。
もはや公武合体は時勢に合わず、攘夷決行の内旨を下された。さらに、久坂玄瑞ら藩内尊攘急進派の糾弾により失脚した。
その後は帰国謹慎となったが、藩主の覚えもよく、時期を見て許されるものと見られていた。しかし、安政六年(1859)に吉田松陰の江戸檻送の幕命が下ったとき、その命を雅楽が携えてきたことを憎悪していた急進派は長井雅楽への攻撃をやめず、ついに雅楽は自刃を命じられた。
雅楽は親戚の福原又四郎に介錯を頼み、「弓八幡」を朗々と謡い切腹。見事な最期であったという。明治になって雅楽は罪なくして切腹したことが知られ、井上聞多は遺族の保護に尽くした。
長井雅楽の長井氏は、毛利広世が家督を継承し毛利福原氏と名乗った長井氏の同族であり、長井雅楽の家紋は「二文字に三つ星」であった。長井氏の家紋は、『羽継原合戦記』に「永井と那波は 三つ星に一文字にて」とあり、『見聞諸家紋』にも大江氏の一族である長井・毛利・竹藤・萩氏の家紋として「一文字三つ星」が記されている。
毛利宗家に遠慮して、本来の「一文字三つ星」の「一文字」を「二文字」にしたものであおう。毛利福原氏も長井氏と同じく「一文字三つ星」を用いてたものが、いつのころか「酢漿草」に改めたものと考えられる。
貞俊は元就から正直にして表裏なき人物であると信頼され、嫡男隆元の死後、吉川元春・小早川隆景らが毛利氏の政策決定に参画するようになると、せめて輝元が二十歳になるまではその後見となり、家中はもちろん、他所他国のことまで相談にのってほしい、という元就からの強い要請をうけた。
永禄十年(1567)、貞俊は元春・隆景とともに毛利家の首脳部を構成し、のち口羽通良を加えた四人で天正十二年(1584)頃まで輝元の領国支配を補佐した。
娘婿の口羽通良は吉川元春と行動を共にして主に山陰方面を担当したのに対し、貞俊は小早川隆景を補佐して主に山陽・瀬戸内方面の支配を担当した。文禄二年(1593)八月死去、享年八十二歳(七十五歳とする系図もある)であった。
貞俊の孫広俊は毛利輝元に仕えて篤い信頼を受け、萩藩の成立期に大きな活躍を示した。毛利氏は慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦」において西軍に味方したことで、戦後、防長二国に所領を削られ、徳川氏との関係も緊張が続いた。
そのような時代において、広俊は井原元以らとともに国元加判役となり、徳川氏との交渉の任にもあたった。毛利氏の困難な時期にあたって、広俊はよくその職務をまっとうし、元和八年(1622)嫡子元俊に家督を譲り隠居した。以後、福原氏は毛利氏の準一門として八千石を知行し、萩藩政で重要な役割を果たした。・2005年3月17日
長井氏の家紋 幕末の動乱期、萩藩の重臣に長井雅楽時庸が出た。長井雅楽は、文久元年(1861)航海遠略策を唱え、藩より公武間周旋を命じられ活躍、翌二年、中老格に列せられた。そして、同年三月、上京して正親町三条卿を経て朝廷へ建議書を提出したが、尊攘派の非難を浴び、翌月薩摩藩島津久光の上京によって京の形勢逆転。
もはや公武合体は時勢に合わず、攘夷決行の内旨を下された。さらに、久坂玄瑞ら藩内尊攘急進派の糾弾により失脚した。
その後は帰国謹慎となったが、藩主の覚えもよく、時期を見て許されるものと見られていた。しかし、安政六年(1859)に吉田松陰の江戸檻送の幕命が下ったとき、その命を雅楽が携えてきたことを憎悪していた急進派は長井雅楽への攻撃をやめず、ついに雅楽は自刃を命じられた。
雅楽は親戚の福原又四郎に介錯を頼み、「弓八幡」を朗々と謡い切腹。見事な最期であったという。明治になって雅楽は罪なくして切腹したことが知られ、井上聞多は遺族の保護に尽くした。
長井雅楽の長井氏は、毛利広世が家督を継承し毛利福原氏と名乗った長井氏の同族であり、長井雅楽の家紋は「二文字に三つ星」であった。長井氏の家紋は、『羽継原合戦記』に「永井と那波は 三つ星に一文字にて」とあり、『見聞諸家紋』にも大江氏の一族である長井・毛利・竹藤・萩氏の家紋として「一文字三つ星」が記されている。
毛利宗家に遠慮して、本来の「一文字三つ星」の「一文字」を「二文字」にしたものであおう。毛利福原氏も長井氏と同じく「一文字三つ星」を用いてたものが、いつのころか「酢漿草」に改めたものと考えられる。
818公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 10:43:11.17ID:7WeFooAn 桂 氏 二文字に三つ星 (毛利氏庶流)
桂氏は毛利氏の有力庶家で、宗家の執権職をつとめた坂氏の分かれである。毛利弘元・興元の代に執権職にあった坂広明の子広澄は、広明の嫡男でありながら家督を継がず桂村に住して姓を桂に改めた。
大永三年(1523)、毛利氏の家督にあった幸松丸が死去したことで、毛利氏家中は協議して毛利元就に家督相続を請うた。元就が毛利宗家を相続するにあたって、忠誠を誓った宿老十五人のうちの一人に広澄の嫡子元澄も加わっている。
ところが、翌四年、一族の坂広秀、渡辺勝らが尼子氏の重臣亀井秀綱らと謀って、元就を殺害し、元就の異母弟である相合元綱を当主に立てようとした。しかし、反逆は露見し、相合元綱は討たれ坂広秀は切腹、渡辺勝は殺害された。
そして、坂広澄は一族の広秀らが誅殺されたことの責任を感じ、元就の制止を振り切って自刃した。広澄が自害したことで、すでに桂氏の家督を継いでいた元澄は、弟元忠ら一族郎党とともに居城桂中山城に立て籠った。これに対して元就は、使者を派遣して籠城を解くように諭したが元澄はそれを拒否したため、元就みずから説得にあたったため、ついに元澄は元就に心服した。
毛利氏の覇業を支える 天文二十年(1551)、中国の太守大内義隆が重臣の陶晴賢の謀叛によって殺害された。この事態に際して元就は、晴賢と協調路線をとることで勢力の拡大を図った。
しかし、次第に陶晴賢は元就の存在を煙たいものとして、掣肘を加えるようになってきた。毛利氏と陶氏との間は、次第に険悪なものとなり、ついには対立関係にいたった。
天文二十三年(1554)五月、元澄は、毛利氏が陶晴賢と断交し厳島神社の神領であった安芸国佐西郡を占領すると、厳島神社神主家の本拠であった廿日市の桜尾城を預けられ、神領の管理・支配を担当した。
そして、同年七月、元就・隆元父子より神領のうち、平良・宮内郷六百九十六貫、佐方七十五貫および廿日市町一円を宛行われた。
桂氏は毛利氏の有力庶家で、宗家の執権職をつとめた坂氏の分かれである。毛利弘元・興元の代に執権職にあった坂広明の子広澄は、広明の嫡男でありながら家督を継がず桂村に住して姓を桂に改めた。
大永三年(1523)、毛利氏の家督にあった幸松丸が死去したことで、毛利氏家中は協議して毛利元就に家督相続を請うた。元就が毛利宗家を相続するにあたって、忠誠を誓った宿老十五人のうちの一人に広澄の嫡子元澄も加わっている。
ところが、翌四年、一族の坂広秀、渡辺勝らが尼子氏の重臣亀井秀綱らと謀って、元就を殺害し、元就の異母弟である相合元綱を当主に立てようとした。しかし、反逆は露見し、相合元綱は討たれ坂広秀は切腹、渡辺勝は殺害された。
そして、坂広澄は一族の広秀らが誅殺されたことの責任を感じ、元就の制止を振り切って自刃した。広澄が自害したことで、すでに桂氏の家督を継いでいた元澄は、弟元忠ら一族郎党とともに居城桂中山城に立て籠った。これに対して元就は、使者を派遣して籠城を解くように諭したが元澄はそれを拒否したため、元就みずから説得にあたったため、ついに元澄は元就に心服した。
毛利氏の覇業を支える 天文二十年(1551)、中国の太守大内義隆が重臣の陶晴賢の謀叛によって殺害された。この事態に際して元就は、晴賢と協調路線をとることで勢力の拡大を図った。
しかし、次第に陶晴賢は元就の存在を煙たいものとして、掣肘を加えるようになってきた。毛利氏と陶氏との間は、次第に険悪なものとなり、ついには対立関係にいたった。
天文二十三年(1554)五月、元澄は、毛利氏が陶晴賢と断交し厳島神社の神領であった安芸国佐西郡を占領すると、厳島神社神主家の本拠であった廿日市の桜尾城を預けられ、神領の管理・支配を担当した。
そして、同年七月、元就・隆元父子より神領のうち、平良・宮内郷六百九十六貫、佐方七十五貫および廿日市町一円を宛行われた。
819公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 10:45:53.55ID:7WeFooAn >>818 陶氏との対戦を決意した元就は、果敢な謀略戦を展開した。晴賢の腹心で勇将の名も高い江良房栄を謀略によって晴賢に札がさせ、さらに、桜尾城主の桂元澄を晴賢に内応させ、晴賢に対して厳島出陣を促した。こうして周到な調略によって、毛利軍を上回る陶軍をまんまと厳島に誘き出すことに成功したのである。
弘治元年(1555)、おりからの暴風雨をついて毛利軍は出陣し、油断をしていた陶軍に襲いかかり、大将の陶晴賢をはじめ名のある武将を討ちとる大勝利を得た。この戦いによって、毛利元就は一躍中国地方の覇者となったのである。
翌年、元澄は厳島神社の造営修理を担当した大願寺の要請を受けて、厳島の町に造営人足を賦課した。ついで、永禄四年(1561)の大鳥居の造営では能美島からの柱用材搬出などを統轄するなど、桜尾城主として厳島を含む神領の管理に任じた。
永禄末年、元就四男の穂田元清が桜尾城主として入城したことで、元澄は桜尾城主在番の任から解放された。その後も、毛利氏の重臣として行動し、永禄十二年、七十歳で死去した。元澄のあとは五男の広繁が継ぎ、桜尾城主元清を補佐した。
元澄の弟元忠は、兄元澄ほどの才覚はないが、毛利家中にもこれほどの人はいない正路の人と賞された。その人柄から、元就の側近に抜擢され、児玉就忠とともに元就の意を奉じて給地を打ち渡すなど奉行人をつとめた。
天文十九年(1550)、元就の嫡男隆元の下に毛利氏全体の運営にあたる五奉行体制が確立すると、その一員に加わった。同二十三年頃、元就の被官衆への打ち渡しを任務する元就奉行人が形成されると、これにも参画した。また、元就と隆元のパイプ役を果たすなど、元亀三年(1572)まで、奉行の職にあった。元忠のあとは就宣が継ぎ、父と同様に奉行職を務めている。
江戸時代、桂氏は萩藩士として寄組に二家、大組に十二家など、一族おおいに繁栄した。幕末に活躍した桂小五郎は、大江氏流桂氏の後裔とされている。
弘治元年(1555)、おりからの暴風雨をついて毛利軍は出陣し、油断をしていた陶軍に襲いかかり、大将の陶晴賢をはじめ名のある武将を討ちとる大勝利を得た。この戦いによって、毛利元就は一躍中国地方の覇者となったのである。
翌年、元澄は厳島神社の造営修理を担当した大願寺の要請を受けて、厳島の町に造営人足を賦課した。ついで、永禄四年(1561)の大鳥居の造営では能美島からの柱用材搬出などを統轄するなど、桜尾城主として厳島を含む神領の管理に任じた。
永禄末年、元就四男の穂田元清が桜尾城主として入城したことで、元澄は桜尾城主在番の任から解放された。その後も、毛利氏の重臣として行動し、永禄十二年、七十歳で死去した。元澄のあとは五男の広繁が継ぎ、桜尾城主元清を補佐した。
元澄の弟元忠は、兄元澄ほどの才覚はないが、毛利家中にもこれほどの人はいない正路の人と賞された。その人柄から、元就の側近に抜擢され、児玉就忠とともに元就の意を奉じて給地を打ち渡すなど奉行人をつとめた。
天文十九年(1550)、元就の嫡男隆元の下に毛利氏全体の運営にあたる五奉行体制が確立すると、その一員に加わった。同二十三年頃、元就の被官衆への打ち渡しを任務する元就奉行人が形成されると、これにも参画した。また、元就と隆元のパイプ役を果たすなど、元亀三年(1572)まで、奉行の職にあった。元忠のあとは就宣が継ぎ、父と同様に奉行職を務めている。
江戸時代、桂氏は萩藩士として寄組に二家、大組に十二家など、一族おおいに繁栄した。幕末に活躍した桂小五郎は、大江氏流桂氏の後裔とされている。
820公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 11:11:59.07ID:7WeFooAn 厚木市立南毛利小学校
現在位置:トップページ >学校概要 >校歌・校章
校歌 作詞 和田 傳 作曲 和田 美津子
1
仰ぎ見る 阿夫利のみね 四季うるわしく この丘辺 南毛利 われらのいのち ここに 芽ばえ 伸びる たのし たのし たのし
われらの学舎 南毛利
2
師の教え 友のちかい 深く あまねし この丘辺 南毛利 われらのいのち ここに ひらき かおる たのし たのし たのし われらの学舎 南毛利
校章 南毛利校章
本校の校章は五三の桐である。これは鎌倉時代に相模の毛利庄(厚木市・愛甲郡)を領した毛利氏の子孫が功績をたたえられ正親町天皇より下賜されたものである。明治25年南毛利小学校の発足と同時に校章として制定された。
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校歌 作詞 和田 傳 作曲 和田 美津子
1
仰ぎ見る 阿夫利のみね 四季うるわしく この丘辺 南毛利 われらのいのち ここに 芽ばえ 伸びる たのし たのし たのし
われらの学舎 南毛利
2
師の教え 友のちかい 深く あまねし この丘辺 南毛利 われらのいのち ここに ひらき かおる たのし たのし たのし われらの学舎 南毛利
校章 南毛利校章
本校の校章は五三の桐である。これは鎌倉時代に相模の毛利庄(厚木市・愛甲郡)を領した毛利氏の子孫が功績をたたえられ正親町天皇より下賜されたものである。明治25年南毛利小学校の発足と同時に校章として制定された。
821公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 11:15:20.90ID:7WeFooAn 南毛利中学校 のホームページ
校歌・校章 現在位置:トップページ >学校概要 >校歌・校章 校長室から
校歌・校章 学校のあゆみ(沿革) 学校へのアクセス
校歌 作詞 谷 鼎 作曲 月岡 忠三
さがみ川 目に遠白く あふり山 眉に迫りて 立つところ 光ヶ丘に ひるがえすかな 五三の桐 のぞみては 高き青雲 あゆみては はるかなる道 日のめぐみ 土のめぐみに こたへ努めむ いざやわれら
校章 五三の桐の校章 相模国毛利庄を領した大江季光は毛利姓を名のり、後に安芸に移動した。
その子孫である元就が資金を朝廷に進献し、時の正親町天皇は深く感動され、毛利家に「五三の桐」の紋章を下賜した。
南毛利小学校と同様戦後生まれの本校も歴史的意義あるこの紋章を校章としている。
校歌・校章 現在位置:トップページ >学校概要 >校歌・校章 校長室から
校歌・校章 学校のあゆみ(沿革) 学校へのアクセス
校歌 作詞 谷 鼎 作曲 月岡 忠三
さがみ川 目に遠白く あふり山 眉に迫りて 立つところ 光ヶ丘に ひるがえすかな 五三の桐 のぞみては 高き青雲 あゆみては はるかなる道 日のめぐみ 土のめぐみに こたへ努めむ いざやわれら
校章 五三の桐の校章 相模国毛利庄を領した大江季光は毛利姓を名のり、後に安芸に移動した。
その子孫である元就が資金を朝廷に進献し、時の正親町天皇は深く感動され、毛利家に「五三の桐」の紋章を下賜した。
南毛利小学校と同様戦後生まれの本校も歴史的意義あるこの紋章を校章としている。
822公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 11:21:48.21ID:7WeFooAn 流れゆく歴史 2021/04/01 — この「毛利」の姓を初めて名乗ったのが毛利季光(すえみつ)でした。 季光の父親は、公家の大江広元(おおえのひろもと)。建久3年(1192年)、源頼朝が ...
毛利氏の誕生 西国に行っても名乗り続けた「毛利」の姓。これには源氏の家臣である関東御家人としての誇りがあったようです。この「毛利」の姓を初めて名乗ったのが毛利季光(すえみつ)でした。
季光の父親は、公家の大江広元(おおえのひろもと)。建久3年(1192年)、源頼朝が鎌倉幕府を開府し、武士が初めて政治を行うにあたり、朝廷の内情に精通し、法律などの知識が豊富な広元を京都から呼び寄せました。
広元は政治の中枢を担う政所(まんどころ)の初代別当を務めるなど幕府に大きく貢献し、資源豊かな要地である「相模国毛利庄」(現在の厚木市)を領地として与えられます。広元の四男に生まれた季光は、毛利庄に居住。父親の姓であった「大江」を、「毛利」に改めたのです。
季光の戦い 宝治元年(1247年)、鎌倉幕府は、北条氏の台頭で、揺れに揺れていました。源頼朝の時代から仕える御家人と北条氏との対立が表面化し、ついに横須賀市周辺を治めていた三浦氏が挙兵したのです(三浦氏の乱)。その渦中、人生の岐路に立たされた一人の武将がいました。厚木の地にある毛利庄(もうりのしょう)の領主・毛利季光、その人でした。
鎌倉幕府の評定衆(ひょうじょうしゅう)を務める毛利季光は、執権・北条泰時の孫・時頼に娘を嫁がせ、北条氏と姻戚関係を結んでいました。
しかし、季光の妻の実家が三浦氏だったことから「実家の三浦氏を捨て勢いのある北条氏に味方するのは武士の義に背く」と妻に引き止められ、三浦氏の味方をすることになったのです。
毛利氏の誕生 西国に行っても名乗り続けた「毛利」の姓。これには源氏の家臣である関東御家人としての誇りがあったようです。この「毛利」の姓を初めて名乗ったのが毛利季光(すえみつ)でした。
季光の父親は、公家の大江広元(おおえのひろもと)。建久3年(1192年)、源頼朝が鎌倉幕府を開府し、武士が初めて政治を行うにあたり、朝廷の内情に精通し、法律などの知識が豊富な広元を京都から呼び寄せました。
広元は政治の中枢を担う政所(まんどころ)の初代別当を務めるなど幕府に大きく貢献し、資源豊かな要地である「相模国毛利庄」(現在の厚木市)を領地として与えられます。広元の四男に生まれた季光は、毛利庄に居住。父親の姓であった「大江」を、「毛利」に改めたのです。
季光の戦い 宝治元年(1247年)、鎌倉幕府は、北条氏の台頭で、揺れに揺れていました。源頼朝の時代から仕える御家人と北条氏との対立が表面化し、ついに横須賀市周辺を治めていた三浦氏が挙兵したのです(三浦氏の乱)。その渦中、人生の岐路に立たされた一人の武将がいました。厚木の地にある毛利庄(もうりのしょう)の領主・毛利季光、その人でした。
鎌倉幕府の評定衆(ひょうじょうしゅう)を務める毛利季光は、執権・北条泰時の孫・時頼に娘を嫁がせ、北条氏と姻戚関係を結んでいました。
しかし、季光の妻の実家が三浦氏だったことから「実家の三浦氏を捨て勢いのある北条氏に味方するのは武士の義に背く」と妻に引き止められ、三浦氏の味方をすることになったのです。
823公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 11:23:35.32ID:7WeFooAn >>822 鎌倉幕府を二分した激しい戦いの末に三浦氏は敗れ、鎌倉の法華堂で季光も一族郎党約500人と共に自害して果てます。
娘婿、妻の実家の板挟みになり、思い悩んだ末、武士の義に生きた毛利季光。この人こそ、「毛利元就」の祖先なのです。
豪族から戦国大名へ
三浦氏の乱に巻き込まれなかったのが、越後佐橋庄(えちごさはしのしょう)−新潟県柏崎市−と安芸吉田庄(あきよしだのしょう)−広島県吉田町−の地頭として関東を離れていた季光の四男・経光(つねみつ)でした。幕府も毛利氏を信頼し、佐橋庄と吉田庄は取り上げられず、毛利家の血筋は絶えることがなかったのです。
建武3年(1336年)当時、経済の中心が瀬戸内海であったことなど、西の方が有利と判断し、経光の四男・時親(ときちか)が吉田庄に移り住みます。
そして、約230年後に毛利元就が、守護大名の大内氏や尼子氏を倒し、小さな国の領主から、中国地方全域を領地とする戦国大名へのし上がっていきました。
承久3年(1221年) 広元四男季光、承久の乱で功績をあげる。
宝治元年(1247年) 季光四男経光、佐橋庄で毛利姓を継ぐ。
建武3年(1336年) 経光四男時親、吉田庄へ移る。 天正19年(1591年) 輝元、居館を広島に移す。 慶長9年(1604年) 輝元、萩城に移る。 文久3年(1863年) 敬親、萩城を去り山口へ移る。
大正5年(1916年) 防府多々良邸完成。
娘婿、妻の実家の板挟みになり、思い悩んだ末、武士の義に生きた毛利季光。この人こそ、「毛利元就」の祖先なのです。
豪族から戦国大名へ
三浦氏の乱に巻き込まれなかったのが、越後佐橋庄(えちごさはしのしょう)−新潟県柏崎市−と安芸吉田庄(あきよしだのしょう)−広島県吉田町−の地頭として関東を離れていた季光の四男・経光(つねみつ)でした。幕府も毛利氏を信頼し、佐橋庄と吉田庄は取り上げられず、毛利家の血筋は絶えることがなかったのです。
建武3年(1336年)当時、経済の中心が瀬戸内海であったことなど、西の方が有利と判断し、経光の四男・時親(ときちか)が吉田庄に移り住みます。
そして、約230年後に毛利元就が、守護大名の大内氏や尼子氏を倒し、小さな国の領主から、中国地方全域を領地とする戦国大名へのし上がっていきました。
承久3年(1221年) 広元四男季光、承久の乱で功績をあげる。
宝治元年(1247年) 季光四男経光、佐橋庄で毛利姓を継ぐ。
建武3年(1336年) 経光四男時親、吉田庄へ移る。 天正19年(1591年) 輝元、居館を広島に移す。 慶長9年(1604年) 輝元、萩城に移る。 文久3年(1863年) 敬親、萩城を去り山口へ移る。
大正5年(1916年) 防府多々良邸完成。
824公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 11:36:51.83ID:nqKikxMe825公共放送名無しさん
2025/04/03(木) 11:43:02.47ID:7WeFooAn 幟仁親王 たかひとしんのう たかひとしんのう
生没年 文化9年1月5日 〜 明治19年1月24日 (1812年2月17日 〜 1886年1月24日)
出身地 京都府 職業・身分 公家・旧大名 、 芸術家
別称 有栖川宮(宮号)、八穂宮(やほのみや、幼称)
解説 有栖川流書道の大成者。有栖川宮韶仁(つなひと)親王の第1王子。弘化2(1845)年宮家を継ぐ。祐宮(後の明治天皇)の習字師範、国事御用掛、明治維新後は神祇事務総督等を務めた。
皇典講究所(後の國學院大学)総裁。五箇条御誓文の正本は幟仁親王の揮毫。
生没年 文化9年1月5日 〜 明治19年1月24日 (1812年2月17日 〜 1886年1月24日)
出身地 京都府 職業・身分 公家・旧大名 、 芸術家
別称 有栖川宮(宮号)、八穂宮(やほのみや、幼称)
解説 有栖川流書道の大成者。有栖川宮韶仁(つなひと)親王の第1王子。弘化2(1845)年宮家を継ぐ。祐宮(後の明治天皇)の習字師範、国事御用掛、明治維新後は神祇事務総督等を務めた。
皇典講究所(後の國學院大学)総裁。五箇条御誓文の正本は幟仁親王の揮毫。
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