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【FAMILY】ファミリーヒストリー3【HISTORY】

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0268名無しさんといっしょ
垢版 |
2019/11/03(日) 17:25:00.63ID:xMCgC9pn
はりまやよさこい物語(五)焼け野原から立ち上がった人々
https://mnnbo2.exblog.jp/20910328/

 写真は2009年のよさこい祭り、(現在の)はりまや橋商店街競演場での記録。

 高知家の妹、広末涼子さんの叔父さんでもいらっしゃる、
高知市商店街振興組合連合会理事長 広末 幸彦氏にお願いし「はりまやSTORY 2009.9月10月号に掲載許可をいただくことができた。
(今でもはりまや橋商店街振興組合の事務所に、額入りで飾ってくれている。)

 2008年1月26日、
土佐史談会副会長 谷是(たに・ただし)さんにお招きいただき「追手前・帯屋町・細工町・廿代町の歴史と文化について」という講演を聴きに行った。
その中で、広末涼子さんの曽祖父、広末静一さんのことが語られた。
広末涼子さんのルーツを知り、「ああ、そうか!だからこんなに忙しい時にも、広末涼子さんは、高知によさこいを踊りに帰ってきてくれるんだ!
押しも押されもしない日本を代表する大女優になった現在でも、高知を盛り上げようとしてくれているんだ!」と、納得したものだ。

以下、谷さんが手掛けられた「高知県人名辞典」を元に、記事に書かせていただいた。

広末涼子さんの曽祖父、広末静一氏

 『昭和20(1945)年、7月4日、高知市街は大空襲を受ける。
 広末静一さんは翌日焼け跡から金物を掘り出し、蓆(むしろ)の上にそれを並べ店を再開した。
帯屋町復活第1号といわれ、その後商店街振興の先駆者的役割を果たしてゆく』

 絶望に打ちひしがれていた街の人々は、そんな廣末さんの姿に勇気付けられ、再び街が動き出したといいます。
そして戦後の商店街をなんとか元気付けようと、濱口八郎さんほか商工会議所の方々や武政英策さんらの努力により「よさこい祭り」が誕生。

涼子さんが帯屋町ジュニア隊で踊っていたことは有名な話ですが、
こんなに忙しくなってもよさこいを踊りに頻繁に高知に帰ってきてくれる、彼女のバックボーンともいえる話だと思います。
0269名無しさんといっしょ
垢版 |
2019/11/03(日) 17:26:15.73ID:xMCgC9pn
廣末静一 ひろすえ せいいち(1893〜1968)

実業家、金物商 明治26年1月6日、常三郎、栄の三男として生まれた。
明治43(1910)年市立高知商業高校を卒業後、家業に就く。
大正8(1919)年小松拾と結婚。度量器製作の仕事もしていた。
父常三郎の時代から種崎町に店があったが、金物は広い倉庫がいる仕事、土地を求めて帯屋町1丁目に移転した。
当時同地は道幅は広かったが、病院の多い場所で繁華街とは言い難く、人通りは少なかった。
昭和20年(1945)年7月4日高知市街は大空襲を受ける。
静一は翌日焼け跡から金物を掘り出し、蓆の上にそれを並べ、店を再開した。帯屋町復店第1号といわれている。
戦後同地を繁華街にしたい願望を持っていた静一は、商業学校同窓の高知商工会議所会頭・入交太蔵や太兵衛兄弟に働きかけ、
ヤミ価の横行時代正札の店≠近辺に創ろうと「高知大丸」を誘致し、他方同氏らに交渉し、人の集まる映画館の導入に成功した。
また、自店の周辺部の土地を買い、自ら区画整理員となり、商売をする人のみに分け与えることとし、商店街を形成することに努めた。
これらが後年帯屋町が商店街として発展する素地となったもので、商店街振興の先駆的役割を果たした。
昭和43年10月13日没。75歳。

「高知県人名辞典」より
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