>>142
池田輝政は、最初は、嫌がっていたみたいだよ。
家康の娘との婚姻について、秀吉の命令に従うように説得したのは、
池田家の家老の伊木忠次という忠臣だよ。

輝政は父と兄を討った徳川家康を恨んでおり、
輝政を懐柔するために家康から秀吉を通じて次女・督姫との婚姻を持ちかけられていた。
忠次は輝政から拒絶の相談を受けていたが、有効な解決策を見出せずにおり、
結局輝政は文禄3年(1594年)に正室の糸姫(中川清秀の娘)との離婚に踏み切り、督姫を継室に迎えることとなった。

しかし秀吉の死後、輝政はこの姻戚関係を利用して家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して
岐阜城の戦いに参戦した。
忠次は輝政を補佐して8月22日、岐阜城攻防戦の際に上宮寺に対して文書を発給している(『上宮寺文書』)。
慶長6年(1601年)、戦功を認められ輝政は姫路城52万石に加増され、筆頭家老の忠次は播磨三木城3万7千石を与えられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9C%A8%E5%BF%A0%E6%AC%A1