【道糞】荒木村重ファンクラブ【道薫】
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信長から特段の信を置かれる豪快なナイスガイかと思えば、裏切り後は茶人として復帰するしたたかさと繊細さを兼ね備え自らウンコマンを名乗る大器、荒木村重を愛でるスレです >>571
俺の中の史観がへうげものに近いのだろうな。”死ねない”のは未練があるからだ。後悔したくないからだ。私はそう思う。 >>572
名誉欲というものすら失った状態だろ。
生きる欲求は本能的なもの。
それを上回る名誉欲という人間らしさが有れば自害するが、そこがない。
だから化物。 >>573
それは化け物なのか?違うなぁ。欲を無くせばそこにあるのは悟りの領域。何故道薫は迷いの中にあるのか?後悔と未練があるからだよ。悔いがある。
何故あの場でわざわざ秀吉を焚きつけて切らそうとしたか?天下人にまだ未練があるからだよ。何故茶人か?己の茶の湯をまだ極めたいと思う欲求があるからだよ。
だから死ねなかった。
私はそう思うのですよ。 3ヶ月ぶりに見たけど、昨日のはすごかった
毎週これぐらい? 傷だらけの魂ってサブタイがほんとかっこよすぎる
ええ花道用意してもらったな村重 ♪道っちゃん、道々ンコ垂れてー、紙ーがないから
手で拭いてー、もったいないから、舐めちゃったら
翌年、疫痢で死にますたぁ!www ♪ >>574
>何故茶人か?己の茶の湯をまだ極めたいと思う欲求があるからだよ。
この人の茶だけは飲めないな…飲みたくない。
秀吉は懐が深いね。俺なら傍に置かないわ。斬り捨ててる。 存在していること自体が不愉快だから。 そりゃあ人の懐柔スキルだけで天下人になったような男と、ネラーの懐の広さなんぞ比べるべくもあるまい 自称乱世が生んだ化け物だけど化け物ではないよな
糞野郎と言うか現代的な小心者なように見える
最後はちゃんと成仏して死ねたって描きかただったな 清水宗治や別所長治みたいな人もいれば
小寺政職やこういう人もいる
前者のような人は今は死に絶えたのかな まぁ関羽を神と崇める中国人が何をしているかを考えると
清水宗治のような人達はもはや神のような遠い存在になってしまったのかもしれないね 小心者じゃなくて、我が強いんだろう。それをコント
ロールできないんだ。 >>588
トイレに入って力めば会えるよ!
会えるよ! 公式HPで村重メモリアルやってくれないのかな
半兵衛よりよほど出番多かったはず 村重外伝やってくれないかな。
逃亡したあと、秀吉の御伽衆になるまでのドラマを。 今こそ村重まんじゅうは田中哲司さんをCMキャラクターにして宣伝放送するべきなんだが いい役者さんだけど刑事役はイマイチというか普通かな 棒だから。
死んだ魚の目と棒読み力で頭パカーンした役ならハマる 現代劇の普通の役だと埋もれがちかもね
前舞台でヤクザやったの観たけどすげーかっこよかった。スタイル良くて驚いた
露出増えるだろうから、イっちゃってる役でまた見たい 村重にキャスティングした人GJだな
勝家をキャスティングしたぼんくらスタッフとは月とスッポン 村重と同じことを、後に
徳川最後の将軍がやったんだね。
鳥羽・伏見の戦いの最中に将軍だけ単身江戸に逃げ帰って、
結果生き延びたところは、共通してる 慶喜も趣味が写真で、晩年は写真家みたいた生活を送っていたらしいな >>603
おひさまではオンナのくせにが、これでは成り上がり者のくせに(秀吉)になるんかw >>609
高校の教師がジャズマンになるのに比べたら、大名が茶人になるぐらい朝飯前だろ >>582
荒木村重や小寺政職がアレなのは、かなり創作が入っている訳で。
官兵衛も二人にひどい目に合わされても共感する部分があったから、
後で村重にフレンドリーな手紙を書いたり、政職の子供の面倒をみたり
しているいし。 >>613
高遠頼継もあれほど情けない人物ではなかった可能性はありますか? 高遠なあ、信玄にまるめこまれた・・・
大河で手つかずの面白そうなのなら
大化の改新〜壬申の乱
を中心としたあたりなんだろうけど。暗殺とか毒殺とか謀殺とか・・・
NHKの反日軍団が喜びそうなネタ満載だからなあ >>615
>大河で手つかずの面白そうなのなら
>大化の改新〜壬申の乱
>を中心としたあたりなんだろうけど。
面白いとは思うけど、内容以前に古代風コスプレ劇になるのは勘弁 >>617
大化の改新も単発でやってるだろ
官兵衛の人が主役やって でも平安以前って天皇とか皇族関係が絡んでくるからめんどくさいのよねん そもそも大化の改新が嘘らしい、政治改革はもっと後
蘇我入鹿暗殺も記紀にあるのは新羅のクーデターの丸写しで真相不明 黒田家臣スレからは腐女子臭しかしないのに村重スレの剛健なことよ
村重ギャルとかおらんのかい! 反骨の武将ウンコマン村重の魅力は男児にしか分からん。 荒木村重はうちの家族からは「村木さん」(似てるけど違う)と呼ばれ
いろいろな場面で会話に登場するようになった
使用例:母「笹井さんも自殺しないで、村木さんみたいに
第二の人生歩めばよかったのに」とか
空港以外の知名度あがってよかったね伊丹市
あがっても特に恩恵がなさそうなところが逆に好印象だわwww あっぱれ村重まんじゅうの売り上げに恩恵あったでしょ >>623
中の人のファンの女の子のブログなら、以前読んだ時あるよ。
白洲次郎の時の、居候になっても何もせずにひたすらグータラして「ピアノ弾きてぇ。」と呟く
そういうダメダメっぷりこそが、村重の中の人の真骨頂なんだそうです。 >>626
ウンコと名乗ったのも広く知られちゃったからどうだろ
黒糖タイプじゃなくてよかったねw 現代劇の仕事とは裏腹に武将の風格あったじゃないの
時代劇はやっぱり声と柄が大事だね 村重まんじゅう作ってるとこのフェイブックみたらうんこ再登場のとき喜んでて安心した 伊丹空港に小学生が描いた空港の絵のコンテスト結果が展示してあるんだが、
そのなかの一枚に、村重と官兵衛らしき人物が空港から飛び立って有岡城を空爆(?)してる絵があった。
いろいろフリーダムな小学生もいるもんだ。 伊丹親興が元々の伊丹の領主で、荒木村重は伊丹を侵略したから。
生粋の伊丹人にとっては仇敵。 伊丹は江戸時代は近衛家の領地だったから、武将や大名どうこう全く気にしてない >>318
土牢から救助された陪臣官兵衛が面会したのは、信長でなく上司秀吉
じゃなかったっけ?
579 :日曜8時の名無しさん:2014/05/28(水) 14:02:10.94 ID:8z/v3uLb
「官兵衛を通せ」
戸板に乗せられた官兵衛が、信長の前へ運ばれてきた。
「信長さま」
「・・・・・官兵衛か」
あまりに変わり果てた姿に信長は、絶句した。
「・・・はい、村重に謀られ、このような有様に」
「よくぞ、生きていた。官兵衛褒めて取らす」
信長も、感極まった表情で応えた。
「まずは、休め。委細は身体を治してからじゃ」
「かたじけなきお言葉」
「村重、政職は余が許さぬ。かならず、その息の根を止めてくれる」
周囲に向かって信長は宣した。
「ううっ・・・」
官兵衛はただただ、泣いた。
【2014年大河ドラマ】軍師官兵衛 Part42
http://nozomi.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1401076339/579 >>641
織田方につくにあたり信長に面会してるんだから直臣だろ。
秀吉は寄親であって。 小寺政職という主君が織田方で御着にいる間は
ずっと小寺政職の家臣(織田の外様大名の陪臣)という扱い
黒田(つうか小寺)官兵衛は別に信長に引き抜かれたわけではない
小寺家がなくなったあとは秀吉の家臣扱い
播磨の山崎?かどっかに所領を与える朱印状も信長じゃなく秀吉発給
秀吉が自分の播磨の領地から割いて黒田にやった
クロカンが織田の直臣になったことは実は一度もない 村重、パパス、菊川と立て続けに退場したけどそれぞれ温度差が凄かった
まあ、出番がな特に菊川 村重の家臣の子供をかんべは養子にしているんだな。
しかも小藩ながら大名になっている。 >>641
ドラマ放映分では、バツの悪そうな信長と、信長に殺意を抱いたとも
とれそうな官兵衛という雰囲気だったような。 >>490
そこらへん良かったね。安土桃山の近畿の大名達と言う重要なのに
あまり目立たないパーツだから特にウコン。 >>641
ドラマと全く違う面会描写だけどノベライズ? >>563-574のやり取りが凄く興味深い。
又>>582だけどみんな鹿助や宗治みたいになりたい・・・でもなれないんだよ。
って風には思う。 >>649
毎度毎度、切腹を説得する度に
腹を切らないと荒木村重のように一族皆殺しだぞ
と悪い例として使われてるしな 直家はある意味、官兵衛と白時代秀吉の理想的なやり方だろ?
最小のコストでなるべく人を殺さず、ターゲットだけを仕留める。
敵からは悪辣だけど味方には余計なリスクを与えない。 ドラマの宇都宮鎮房の謀殺も秀吉や長政に責任転嫁せず、
官兵衛が直家から学習した成果とすれば、直家が登場した甲斐があるってもんだ。 >>651
弟からも信用されていなかったそうだけど、直家みたいな立場なら仕方ないよね
初めからお殿様の家康みたいに律儀で通してたらとうに死んでるだろし そんな宇喜多は秀家が、秀吉への忠誠心や義理を最後まで大切にした為家族みんな八丈島で一生レジャー生活・・・
正義って一体何なんだろう? 残された家来達が無茶苦茶困ったらしいな。池田とかに仕官を頼むけど
大半は断わられたみたい。 残された家来達が無茶苦茶困ったらしいな。池田とかに仕官を頼むけど
大半は断わられたみたい。 ●荒木村重の親戚で、奇跡的に反映した一族がいる。
(芸は、身を助ける)
荒木元清 (馬術の荒木流 創始者)
荒木流はその後、4男の荒木元満(もとみつ、十左衛門)によって継承された。
荒木村重の親戚の家系に生まれ、初めは村重の家臣として、花隈城主となっていた。
天正6年(1578年)10月に村重が突如、織田信長に対して反旗を翻した(有岡城の戦い)際、これに同調する。
その後、劣勢となって有岡城、尼崎城(大物城)から逃れてきた村重・村次父子を花隈城に迎え入れたが、
同8年(1580年)、攻めてきた池田恒興らの攻防に耐えきれず城は開城し(花隈城の戦い)、城を脱出した元清は備後鞆に逃れた。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が亡くなり、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、秀吉に昔の罪を許されて家臣に迎えられる。
文禄4年(1595年)、豊臣秀次事件に連座して追放され、流罪となったが、のちに赦された。
慶長3年(1598年)の秀吉の死後は京都に隠遁し、同15年5月23日に死去した(享年75)
四男は前述の通り、荒木元満(1565-1632)。諱は「元治」(もとはる)とするものもある[4]。
元満は秀次事件の際、父と同様に流罪に処され、秀吉死後は黒田長政のもとに居候(寄食)していたが、大坂の陣に際して幕府に召され、
徳川忠長に仕えた[3]。元満の子・荒木元政(もとまさ)も忠長に仕えたが、忠長が自害して亡くなると、
松平直政のもとに一旦預けられた後、忠長の兄・徳川家光(江戸幕府第3代将軍)より許されて幕臣(旗本)となり、
上総国武射郡に1,500石を賜った[3]。この元政の孫が荒木政羽である ●荒木家と忠臣蔵
荒木 政羽の家系は
荒木村重の親戚(従兄弟とされる)、荒木元清(花隈城主・荒木流馬術創始者)の玄孫にあたる
寛文2年(1662年)、上総国武射郡に1,500石の所領を持っていた旗本の荒木元知(もととも、十郎左衛門)の長男として誕生
元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだため、赤穂城の改易城召し上げが決定された。
翌日15日、その収城目付(幕府目付職ではない)にこの荒木と榊原政殊が任命され、4月15日に赤穂入りした。4月18日、榊原・石原正氏(幕府代官)・岡田俊陳(幕府代官)とともに赤穂城を検分した。
検分が終わり帰ろうとする4人を、大石は玄関にて再びお茶を出して引き止め、3度浅野家再興を願い出た。
大石の必死さを見かねた石原が荒木に対して幕閣への取りなしを打診し、荒木や榊原も了承。大石は礼を述べたという流れである。
6月1日までに江戸に戻った荒木は、将軍徳川綱吉や老中若年寄らに収城の報告をおこない、大石から浅野家再興の嘆願があったことも伝えたものの、
結局、浅野長広は本家広島藩へお預けとなり、大石の浅野家再興運動は挫折した。8月28日、荒木は幕府目付に就任した。
その後、赤穂浪士たちは吉良邸へ討ち入り、主君の仇吉良義央を討ち取った。幕府の裁決で赤穂浪士は全員切腹と決まったが、
荒木は、元禄16年(1703年)2月4日、細川綱利邸(大石の預けられ先)へ派遣されて、大石良雄らの検死役をつとめることとなった
元禄16年(1703年)6月28日より京都で霊元法皇付きとなり、この時に500石を加増。また11月6日には従五位下・志摩守に叙任した。のち霊元法皇より直々に鼓を賜っている。
しかし正徳5年(1715年)12月に突然職務中に不手際があったとして小普請役に落とされて、500石の加増も取り消され、出仕を留められた。
享保元年(1716年)5月1日に赦免されたが、享保16年(1731年)5月27日には隠居し、家督を長男政為に譲った。
享保17年(1732年)2月14日に死去。享年71。 徳川幕府が滅び、世も明治と改まった翌年(1869)の4月、
明治政府より八丈島の宇喜多一族赦免の布令が発せられました。
明治3年8月、宇喜多一族71名は前田家のさしまわした便船に乗り、
東京へ向かいました。
品川に入港した宇喜多一族は、一時本郷の法真寺に50日ほど滞在ののち、前田家より板橋にあった加賀藩江戸下屋敷内に
住宅を与えられ、ようやく旅装を解くことができたのです。
明治6年になって明治政府は宇喜多家に板橋19,900坪の宅地を与え、長年の労を労いました。
http://www.city.okayama.jp/tokyo/yukari/ibuki/ukita/ukita3.htm 浮田信家という海軍大佐も、宇喜多の子孫だと思う。
戦艦・金剛によるガダルカナル島の米軍基地砲撃(昭和17年)
ガダルの空にひびけ巨砲の怒り / 浮田信家 / p90〜95
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/24771505.html
http://www.nazuna.com/tom/war/07sieihei.html
ここで、紹介されていた浮田二等兵は、宇喜多一族だと思う。 ●日本で、初めて飛行機を作ったのは宇喜多一族
鳥人浮田幸吉(?〜1851)の墓
墓標下壇に「浮田氏墓所」と左書。墓碑「釈帝玄居士」。
わが国で初めて飛行機を作り、大空を飛んだといわれる。
宇喜田秀家(1572〜1655)の後裔というので、浮田幸吉と称したともいう。
http://www.asa1.net/siseki-meguri/mituke/13daikenzi.html
江戸時代中期1757年(宝暦7年)備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)の浮田(櫻屋)清兵衛の次男として生まれた。7歳で父を亡くし岡山の紙屋に奉公に出て表具を習う。
空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを熱心に研究した。「鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。それを人間の体に相当する翼を作れば人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」と結論づけた。
表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って強度を持たせた翼を製作した。試作を繰り返し1785年(天明5年)夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がった。風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われる。
河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、即座に岡山藩士によって取り押さえられた。時の藩主池田治政により岡山所払いとされた。この出来事は同時代の漢詩人菅茶山の著書『筆のすさび』にも言及されている。
その後、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開いた。軌道に乗ったところで兄の子に店を継がせた。自身は歯科技師「備考斎」として技術力の高い義歯を製作することで評判となった。
晩年は、駿府でも再び空を飛んで見せて騒乱の廉で死罪となったとも、遠江国見附(現在の静岡県磐田市)に移り妻子を得て平穏な余生を送り、1847年(弘化4年)に91年の長寿を全うし死去したとも伝えられる。 ●宇喜多秀家の子孫が熊本で武士になっていた【新発見 」
しかし、中身は、熊本の細川家に仕官を断られ続け、
足軽にしてもらうまでに、100年もかかっていた。
http://bushoojapan.com/scandal/2013/08/28/4780 八丈島に250年間・・・どんな生活してたんだろ。
ズーっと支援していた前田も凄いけど。 >>664
http://www5.ocn.ne.jp/~yo-ko/html/mukasi-hatijyou.html
八丈島の生活は、こんな感じだったそうだ
飢饉が起こると大変そうだったようだ ___
,.. - ''" ̄ ̄ヾミぇx、
,.xチ'" V洲ミム,
,ィア゙ V洲ミミム,
/ミム _,,.ヾ''"ヾミム,
,'ニ圭ム、 _,..-''".:.:.:.:.:.:.:.:.:.マミム, 荒木村重(1535〜1586)
fトニ圭モカ ,.-''".:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:,;,;..-tチ洲ム ,_
{主圭圭リ..-''".:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:,;.-''" _∨モムzzt、 ォt, ,.ィチ''゙
∨,,z=Z「.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:_,.-''"_ ;':.. ,イヂ゙ヾミア(,,)ミリx,,..-=f{アノェチ''゙ニニ=ヌt、
l「 XXli.:.:.:.:_,.-''"...... :: :::...;;'_,ィ'ヂ゙,ィj' ゙ミf三三圭圭三三ニヌミt三ア イヂヽt、
lt、.X爻モガ ,;;zmnョt、... ヾ''メ孑'゙... ミメ三ニ圭.ニ三三V三三ア ,イヂ ,イ゙:、.ミぇ、
,マZ圭圭ミ .:''",,二ztョ`;;;;;, ヾ;;;;;;::.... .:ミliニ-二 }l三三Vニ三ア ,イヂ ,イ::' ,:ミリ .;ミム、
,.イf.:.:.;;ヾミ圭ミム ゙:''"¨.,,;;;;;;;:' ::. 、:.:.:. ;;ミliニミ二 i三三/-三ア ,.'ヂ ,イ::' ,:ミヂ ,:ミ爻ミメ、
,イ! :;;;;,,.. :;;;;;; ゙(¨`゙ミt: `゙'''ー‐'゙,;: ..::...ォ゙ヽ. :;;ミ!三lニ i三三,'ニ三/ ,.'ヂ ,イ::' ,:ミヂ ,:ミ爻ミメZミぇ、
,イ マxヾ;;;;;,,,l;;;;;;;{゙ヽ、ミ;, ..::::ゝtzシtzチミt、,;ミl三iニ.l三三,'-三/ ,.'ヂ ,イ::' ,:ミヂ ,:ミ爻ミメZミ三ミえ、
,/ ::ヽ、゙マ ヾ;;;;ゞミ;;ム ム;ミt、 .::::::;.',ィヌル'"_,,.-‐ヾミリ三-lエ三/::三/ /'゙ ,イ::' ,:ミヂ ,:ミ爻ミィメZチミ三リミ ,えt、
,イム. ヽ、\」三三三ニム゙ミミtミ;;,, fミレ''"¨__,,,- :ミヂ三三三/-三/ .:/ ,イ゙ ,:イヂ ,:ミ爻ミィメZニ三ア三ア:ニ王t、
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ト、ヾilL「三三三Z,.ィチOミXXXミtx: : : : : ̄ ̄`¨¨´::::三三三三三三三三三三≧====tx:::;ィチミヂ三/,:ニチ王王王/
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