【道糞】荒木村重ファンクラブ【道薫】
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信長から特段の信を置かれる豪快なナイスガイかと思えば、裏切り後は茶人として復帰するしたたかさと繊細さを兼ね備え自らウンコマンを名乗る大器、荒木村重を愛でるスレです >>66
村上・井村・村沢・村井・沢村・田村・村田・村主・・・
いっぱいいる ごめん、名前のほうね
>>67
2人が共演している時にうわさが立って、番組終了でうわさが消えた
仲間と官兵衛妻は男嫌いなんじゃない? >>70
京都まで連れて行かれ市中引き回しのうえ、女・子供を問わず五条川原で全員斬首 >>71
火あぶりになった人たちも忘れないでね
信長一世一代の残虐ショー ・馬乗れない
・目立つ
・扮装しても怪しい
・大人数ほど目立つ 道糞が家族をたばかったんでしょ
先ずは見方から、と
そんなんなら初めから毛利なんぞに味方せねば良いのに みんな 荒木村重は、一人では逃げていないぞ。
記録の中には、荒木村重は馬に乗れる愛人の女武者と一緒に逃げたと書かれたものがある。
その女武者は、閨の愛人も兼ねていたようだ。
女の名前は 村重の側室として有名な、阿古(あこ)という名の勇猛な女武者で、
村重はいつも戦場に彼女を連れていたと細川藤孝が語っている。
結局、荒木村重は数人で逃げたようだよ。
徳川慶喜みたいに、門番を騙したのではないだろうか? 村重は、城を出るときに何人に、説明してたんだろうな?
村重は、三国志ぐらい読んでいたかもね
三国志では、豪傑の呂布が、曹操の大軍に囲まれたときに
城を出て、援軍を求めにいこうとしたけど、妻に、そのことを話したら
ないて引き止められて、援軍要請計画は失敗した。
その後、呂布は、長期の篭城によるストレスで、部下を殴ってしまい。
殴られた部下が、裏切って、門を開けてしまい、城が落城しているな。 荒木村重は、怪力だったといわれているから、身長は180センチ近かったんだろうな。
子供のときに父親を碁盤に乗せて持ち上げられる怪力の子供だった。 そこでなぜ呂布が出てくるのかわからん
しかしまあ、妻よりも愛人を連れて逃げるとはw 周りが夫婦仲の実情とは別に美人嫁、美人嫁と囃し立てるものだから
反動で筋肉女萌えに目覚めたんじゃないか 妻は可哀想な死に方したから美人扱いになったんだろと夢のないことを 職場結婚した妻には5人も子供産ませて、鑑識係を長年休職させて、
部下からは「人手不足で困っているんじゃいオラツ!」ってケリ入れられている、なのね。 元々、ガラスのハートだったのかな?
それに加えて、かなり信者も多く、大変な本願寺の担当になってしまったから、
余計にボロボロになり、毛利か義昭が出した飴に飛びついて、裏切ったと。 >>85
出てたね
BSジャパンで週遅れくらいでやるよね
何曜日だったか把握してないけど >>80
奥さん殺したかったんじゃね?
残しておけばああなることを予期できなかったとは思えない >>86
>毛利か義昭が出した飴に飛びついて、裏切ったと。
本願寺が出した飴は記録に残っているよ。
荒木領内の本願寺門徒に一揆を起こさせないという内容... 奥方が殺されたあともしばらく花隈城で籠城していたよね >>90
結果的に村重は生き残り飄々と長生きしてたからそうなるけど
あのときは村重だって自分が本気で信長に殺されると思ってただろ
村重が死んだら奥方もどうせあの運命 人間的な良心や迷い、恐怖を持つ村重が最悪の結果をもたらす
人を信じる心や忠誠心とか義を持つ官兵衛は牢獄へ
最初から悪魔的で手段を選ばない宇喜多の犠牲者は実は少ない
不思議だな >>95
ニーチェの超人を地でいく人だな宇喜多
若い頃は相当な苦労をしてああなったらしいが
大病を患って長生きしなかったのはやはりストレス溜めてたのか 直家の祖父は主君浦上や他の重臣に陥れられて滅亡
直家少年は池沼の振りして世間を欺いていた
祖父を殺した連中は順次、滅ぼされていく
良心の呵責が無かったのは復讐だったからだろう
領民には残虐行為(蓑踊りなど)はしていない
最小の犠牲で最大の領地獲得、汚れ役を主君自らやってくれるし
実は家臣・領民にとっては名君、他国にとっては奸智第一の邪将 村重「あいつ、ワイの事信頼してないから裏切るでー」
信長「村重が裏切るわけないじゃん、ワシ、あいつのこと大好きやし」
村重「いや、もう毛利に寝返ったから、信長嫌い」
信長「いやいやいやいやwwwわかった、河内やる。だから、な?」
村重「いや、だからもうあんたとは敵や」
信長「またまた〜wあ、そうだ河内の他に淡路やるの忘れてた。あと九十九茄子もつけよう!!さあ、帰っておいで」
村重「いやだ」
信長「なんでだああああああああああああ!!!!!!!」 >>97
ふつー自分の領国の領民を理由なく虐げないだろ
何のメリットがあるんだよ?
暗殺なんか必要悪として戦国大名なら皆やってるだろ
成功しても褒められたことでもないから特に誇らないってだけ
宇喜多の場合それが「長所」として褒められるってハードル低いなおい
名君っていうならなんかないの?
こう宇喜多の他よりもポジティヴに優れたところ 地下の土牢ってはじめから伊丹城に作ってあったんだろな。
村重は相当Sだったに違いない。 黒田官兵衛は、1年土牢だけど、
大河清盛に出ていた、原田なんて、平家に味方した罪で13年も土牢に入っていたぞ
平安末期、原田種直は平氏方として活躍。
平清盛の長男である平重盛の養女(清盛の弟・平家盛の娘)を妻とし、
事実上の大宰府の長官となり、九州における平氏の基盤を築く。
平家都落ちの際には岩門城の私邸を安徳天皇の仮皇居にする。
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、種直も領地を没収され、鎌倉に幽閉の身となる。
扇ヶ谷の土牢にて13年、放免後は怡土庄の地を与えられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E6%B0%8F 某サイトの記述
http://takeb777.at.webry.info/200906/article_1.html
1574年に武田勝頼が徳川家康から高天神城を奪取しました。
その攻防戦で最後まで武田方に抵抗して高天神城に残っていたのが、徳川家康の家臣である大河内源三郎政局です。
結局大河内政局は武田軍によって捕らえられ、再び徳川家康が奪還する1581年までの8年もの間、幽閉されていたのがこの石牢です。 江戸時代に、基地外の変体と恐れられた人物がいる。
彼の名は、横田松房
彼の残虐さは、旗本の間でも有名になり、新式の拷問道具
恐怖の横田棒は、囚人たちから恐れられた。
横田松房は、
徳川家康の家臣である大河内源三郎政局の牢屋に差し入れしていた人物の子孫である。
横田家の先祖は横田尹松までさかのぼる。
天文23年(1554年)、横田高松の娘婿である横田康景(綱松)の長男として生まれる。
武田二十四将として有名な原虎胤の孫にあたる。
母は武田家臣の向山氏。はじめ武田信玄に仕え、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参加した。
天正3年(1575年)5月に父が長篠の戦いで戦死したため、家督を継いで武田勝頼に仕え、足軽大将に抜擢された。
天正7年(1579年)8月からは岡部元信と共に遠江高天神城の守将に任じられたが、
天正9年(1581年)に徳川家康の攻撃を受けて落城すると、甲斐に戻っている。
なお、このときに高天神城では城将岡部元信から小者に至るまで連名して援軍の派遣を勝頼に要請しているが、
尹松だけは密かに勝頼に対して兵力の温存のためにも「高天神城は捨てるべき」といった内容の書状を出している
。このとき、甲陽軍鑑では無事に戻ってきた尹松に対して勝頼が誉めて太刀を与えようとしたが、
「祖父・原美濃も横田備中も、父の十郎兵衛も勝って褒美を貰ったことはあるが、自分が負け帰って褒美を貰ったのでは筋がたたない」と言って返したという話を伝えている。
天正10年(1582年)に家康と織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、家康の家臣とな
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E5%B0%B9%E6%9D%BE
横田 松房(よこた としふさ、1744年(延享元年) - 1800年2月11日(寛政12年1月18日))は、江戸時代の旗本。横田尹松の血をひく使番横田松春の子
書院番士から中奥番士、西ノ丸小十人組頭、西ノ丸目付と昇進し、天明4年(1784年)、御手先弓頭、火付盗賊改に就任する。歴代の火付盗賊改は苛烈な尋問で恐れられたが、松房も中山直守や藤懸永直に匹敵する峻厳な取り調べを行い、人々に恐れられた。
横田は横田棒と呼ばれる拷問道具を発案し、拷問に使用した。横田棒は石抱と併用して使われ、正座して石を抱く囚人の折り曲げた脚の合間に挿入された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E6%9D%BE%E6%88%BF
正座した膝の上に嵩む石と、脚の合間の棒に挟まれた脚の骨を砕き、皮膚を破いて流血させ、
塗炭の苦しみを与えて自白を促す目的で使用されたが、負担に耐え切れずに囚人が死亡すること枚挙に暇が無く、
あまりに死者が出すぎたため、横田棒の使用は遂に禁止された。
毎年夏になると、拷問所を兼ねた横田の屋敷からは異臭が湧出し、近所の旗本たちは皆屋敷変えを要望したという。
その後横田は天明5年(1785年)に作事奉行に昇進し、併せて大和守に叙任された。しかし火付盗賊改の頃同様、矯激な素行が多かったため、天明7年(1787年)に新番頭に左遷された。 一つだけ言えるのは
村重が「死んだら終り」と思ってたこと
それは死後の世界を信じていなかったからなのか、
信じていたからこそ、信長の命で酷いことを散々やってきたせいで地獄に落ちるが怖かったかどちらかは解らん 村重も名物茶器をたくさんもってる高名な茶人だから
・松永久秀みたいにいくつか差し出して「ごめんね☆(棒読み)」するか
・いっそ爆発する手もあったのに(有岡城にも立派な天守閣があった)
そういう目立ちたい精神をぐっと我慢して、文化財保護を優先したんだよ!
立派じゃないか、もっとほめてやれ(震え声 >>101
この人は動き回れる大きさの牢でしょ
官兵衛みたいに身動きもろくに取れない大きさなら3年も持たんだろう >>106
なるほど、あなたの意見ももっともだな。
しかし、江戸時代には、キリシタンにわざと、苦痛を与える極狭牢が、
精神的拷問用に準備されていたようだよ。
名前は雁木牢
名古屋市の広小路の牢獄跡(市内中区栄町三丁目)
藩の牢屋敷で、揚屋・新牢・雁木牢・大牢・小牢・六間牢・女牢に分かれ、矢来・忍び返しを取り付けた高塀に囲まれていた。
雁木牢は丈も幅も三尺の狭い牢で、中央に便所を設け、上下から尖った杙を打ち出してある。立てば頭を打ち、
座れば尻を突くので中屈みしているほかない。
記録によれば、改心しない者をこの雁木牢に入れて、改心を迫ったという。 >>108
個人サイトにも説明があったので
http://blogs.yahoo.co.jp/area19192003/51325957.html
名古屋の栄は、昼間と夜の顔がだいぶ違うから
史跡なんて、見向きされないことが多いけどね 織田家も北条家も細々と生き残ってるのはいるからね長曽我部盛親も我慢してれば子孫が、江戸時代の旗本レベルで再就職できたかもしれんな >>110
長曽我部盛親の孫が伊達家に再就職している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E6%9C%9D%E6%84%8F
佐竹 親直(さたけ ちかなお、永禄9年(1566年) - 慶長20年5月6日(1615年6月2日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。長宗我部氏の家臣。佐竹義秀の子。
長宗我部元親に仕えて重用され、その娘を娶ることを許された。
主家改易後も主君・長宗我部盛親に従い、1615年の大坂の陣も盛親に従い、
八尾の戦いで戦死した。
なお、親直の子はのちに仙台藩に仕え、伊達騒動の際に原田宗輔を斬った柴田朝意である。
柴田 朝意(しばた とももと)は、江戸時代前期の仙台藩重臣。伊達騒動の主要人物の一人。
慶長14年(1609年)、土佐国の戦国大名であった長宗我部氏の旧臣・佐竹親直の子として生まれる。幼名は輪丸。
大坂夏の陣で父が主君・長宗我部盛親に従い討死すると。輪丸らは母と共に逃れたが、伊達勢に捕らえられ、母子ともに仙台に送られた。
面会した伊達政宗は輪丸の非凡な容貌を買って召抱えた。
輪丸ははじめ佐竹忠次郎と名乗ったが、寛永5年(1628年)に登米郡米谷城主・柴田惣四郎宗朝が跡継ぎ無くして死去すると
、忠次郎がその異父妹・申の婿に迎えられて柴田朝親と名乗り、
のちに諱を朝意に改める。 長宗我部 康豊(ちょうそかべ やすとよ)は、江戸時代初期の武将。土佐の戦国大名長宗我部元親の末子にあたり、『長宗我部旧記』『古老噺』、『落穂雑談一言集』等に名前が残る。
慶長4年(1599年)頃、長宗我部元親の末子として生まれる。
長宗我部氏没落後、大坂の役の際には兄・盛親に従うが、大坂城落城後に脱出した。
後に足立七左衛門と名乗って、酒井忠利に仕え、1,500石を与えられた。
子孫は5,000石を賜る重臣となったという。
「落穂雑談一言集」「古老噺」には、康豊が川越までに向かう道中の出来事が書かれている。
康豊は山科の農家で着物を盗み、宇都宮の縁者を頼るつもりで東に向かった。
しかし、食料も尽き二日も食べるものもなく信濃の多賀神社で一夜を明かした。
そこで安部晴明の子孫の安部康豊と名乗って占い師を装い、頓智を使って村人をだましたり盗難事件を解決したりして、1
0両の金を得てさらに東に向かった。
駿府の長光寺に住み着き、そこで母方の姓を使って足立七左衛門と名乗った。ある日、駿府城主・酒井忠利が鷹狩をしている時、
刀をもった狂人が忠利に切りかかった。
近隣の住民として鷹狩の手伝いをしていた康豊がこれを取り押さえたため、
忠利は単なる農民であるまいと康豊の素性を訪ね、康豊は自分の身の上を明かした。
驚いた忠利は、康豊に500石を与えて家臣に取り立て、その後加増されて1,500石となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%BA%B7%E8%B1%8A >>101
織田の武将に原田直正というのがいたな、子孫かな? >>113
原田姓は、朝廷から賜ったものだそうだよ。(もともとは、塙)
原田直政の興味深いところは、柴田勝家の娘を妻にしていたことだね。
原田直政(塙九郎左衛門)・正勝・重友・直正・長俊・備中守
http://ukikimaru.ran-maru.net/ran/jiten/haradanaomasa.htm
妻の名前は / 大野木殿 (通称)といわれている。
http://ukikimaru.ran-maru.net/ran/jiten/onokitono.htm 右近、清秀に裏切られ、ダシまでも官兵衛を逃がそうとする。
「お前までワシを裏切るのか」
「成敗してください」
終った。なにもかも。自分の元から逃げていく。
かわいそーな村重はん。 村重が「お前は信長の本性を知らん」と言っていたが
これは後の村重一族の大量処刑につながる言葉かな?
だったら官兵衛は信長にも裏切られることに 戦国の荒木宗太郎という人物は、武士をやめて貿易商として海外まで出て行ったので
荒木村重よりもスケールがでかいと思う。
俺は思うんだけど、荒木村重の性格は、貿易商人に向いていたのではないかなと
http://www.mekong.ne.jp/linkage/arakisoutaro.htm
http://www.mekong.ne.jp/ >>120
でもここ何回かで前フリがあるからね
なんとなく言う事きかなかったり、
官兵衛官兵衛言って旦那のこと咎めたり
今回の大河わかりやすい。
合戦シーンが多いのも面白けど
色んな人の思いが事象をそれぞれ動かして
こういう歴史になってんだなというのがわかる >>99
宇喜多直家の功績
織田と毛利の戦争で備前を戦場にしなかった
隣国の播磨と備中は戦場になった
播磨よりは備前の方が武士も農民も犠牲は少なかったはず >>125
あの、えーと…えーと
おれは宇喜多ファンだけどそれはまったく事実じゃないと断言できる
天正7年に宇喜多が織田に寝返ったあと
どこが山陽方面での織田-毛利の戦いの前線になったか?
それは播磨じゃなく、まさに備前・美作へと西にズレたんだよ
つうか宇喜多の領国備前・美作は毛利と宇喜多の境目合戦で
ド真ん中の激戦地じゃん!
織田方の宇喜多と毛利の戦いは、基本的に攻め手の毛利を
宇喜多が自領で何とか防いでる防衛戦なわけで
まさに備前・美作ほぼ全土が3年間戦場になってる
つうか激戦地の辛川や八浜って宇喜多の本城の岡山城近辺なんだぞ…
本城近くまで毛利に攻め込まれてる危機的な状況なわけで、
逆に宇喜多が毛利領の備中などに攻め入る余裕なんて全然なかったのよ 荒木村重の小姓で、生き残って、大出世した人がいるよ。
木下重堅
(荒木重堅から転送)
摂津国国主・荒木村重の小姓として仕えた安都部弥市郎が、
村重の命により摂津国有馬郡の三田城(車瀬城)に入城するとともに荒木姓を賜り荒木平太夫重堅と改名する。
また、荒木新助勝元の子で天文年間に父が戦死し、叔父の荒木村重に養育されたともいわれる。
村重が主君の織田信長に謀反を起こし(有岡城の戦い)討伐されると、三田城を明け渡し宮部継潤の与力となり羽柴秀吉に仕えた。そのもとで播磨長水城攻めで城主宇野祐清を斬る戦功を立てたため木下姓を名乗ることを許されて、
因幡国若桜(八東・智頭2郡)2万石(一説には3万石とも)を与えられた。天正15年(1582年)、従五位下備中守に叙任時に秀吉の諸太夫となる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、伏見城の戦い、大津城の戦いに参戦。特に伏見城では、次男小平太を戦死させるほど奮戦した。だが、9月15日の本戦で西軍が壊滅したために自害した。 側近でも生き延びた人はいるね
確か長男も逃げ切ったよね 道糞って名乗りだしてからも出るのかな?このままフェードアウト?
出るとしたらその名前はNHK的に大丈夫なのかなw 生きられよって言う言葉が初回からピックアップされてんだもん
糞化しても生き続ける村重は官兵衛の理想形だろ 村重と赤鼻は鞆の足利義昭のところに行くんだろ?
毛利と秀吉は講和成立するので村重と官兵衛は再会するはず
秀吉は官兵衛を敬遠して暗黒寺を重用、小早川と宇喜多の息子が五大老で同席
何のために戦ってきたんだろう?死んだ奴は意味あったのか?という世界
秀吉と義昭が蹴鞠をする、このシーンは玉置の義昭でもあった気がする そもそも唆した中川清秀の方がクソだと思うが
泣かぬなら殺してしまえの信長が元凶のような気もする 中川清秀は悪意は無いんだよ、思ったことを口にしているだけ
正直で憎めない男、今の政治家で言えば麻生太郎に近い
信長に「勝ち目が無いので村重を裏切った」は彼なら言いかねない
山崎の戦いの後に秀吉とのやりとりも映像化して欲しい 中川が賤ヶ岳で討ち死にするのも
もしかして官兵衛がこの時のことを恨みに思って
わざと援軍遅らせたからとかっていうことになるんかな
そんなこと以前にあの中川だと退却命令を聞かなかったから自業自得
とかいうことで処理されそうな気もするが >>135
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1368342730/
【歴史】「官兵衛が合戦の前線にいたことが裏付けられた」…軍師・黒田官兵衛が賤ヶ岳の前線にいた。秀吉サインの指令書発見
1 :ラストボーイスカウト@空挺ラッコさん部隊ρ ★:2013/05/12(日) 16:12:10.04 ID:???0
羽柴(豊臣)秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳合戦(1583年)のさなかに、前線に作戦を指示した
文書が見つかり、長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。
秀吉の花押かおう(サイン)の字が乱れ、緊迫感が伝わる書面。江戸時代の資料でしか知られていなかった秀吉方軍師・
黒田官兵衛の参戦を裏付ける記述もあり、同館は「ほとんど記録のない合戦の生々しさがうかがえる資料」としている。
京都市の古美術商が保管していた文書(縦30センチ、横45・4センチ)で、同館が昨年5月に鑑定、秀吉直筆の花押を
確認して購入した。
同館によると、文書は、羽柴、柴田両軍が長浜市北部の余呉湖周辺で対峙した頃の天正11年(1583年)
3月30日付。長浜城にいた秀吉が、前線で指揮を執る弟・秀長に宛てて送ったもので、末尾の花押は、走り書きしたように
墨線の一部が欠けていた。
賤ヶ岳近くにあった自陣の砦周辺の小屋(兵士の野営施設)を、官兵衛らに破壊させるよう命じた内容で、
「明日には後方から軍勢を送り込むので、今いる軍隊は前線から撤退することはあってはならない」などと記している。
結局、作戦は実行されなかったが、同館は「秀吉は小屋の破壊後、柴田軍への総攻撃を計画していたのでは」とみている。
これまで官兵衛の参戦については、江戸期以降の文書にしか記録がなかったといい、同館は「官兵衛が合戦の前線にいたことが
明確に裏付けられた」としている。 中川清秀は、三国志のキャラで、比較してたとえるならば魏延だよ。
黒田官兵衛 (孔明)
中川清秀 (魏延) >>133
考えてみれば、清秀の配下の者らが本願寺と通じていたことがそもそもの
原因ですしね。 中川清秀の息子は、朝鮮出兵中の戦地で、鷹狩りで遊んでいて、敵に取り囲まれて殺されたので
秀吉が大激怒している。
中川の家臣は、戦死ですと嘘を言ったが・・・すぐに嘘がばれた。
中川 秀政(なかがわ ひでまさ、1568年(永禄11年)- 1592年11月27日(文禄元年10月24日))は、戦国時代の武将。
中川清秀の嫡男で、中川秀成の兄。妻は織田信長の娘・鶴姫。右衛門尉。
1592年の文禄の役では先発から外れたが8月以降に渡海。京畿道陽智の守備についていたが10月24日に水原の近くで鷹狩りをしていた時に敵兵に包囲されて戦死した
(『日本戦史 朝鮮役』参謀本部)。
12月6日付けの秀吉朱印状によると見回り中に待ち伏せにあって討ち取られたという。享年25。
本来「無覚悟」による討ち死には家督相続を許さないところであり、中川家では事実を隠蔽し戦死と取り繕おうとしたが露見し、秀吉の怒りを買った。
しかし、特に父清秀の賤ヶ岳の戦いでの武功に免じて、所領半減となったものの特別に弟秀成に相続を許し、諸将に無駄死にを注意をしている。 賤ヶ岳の戦いで中川清秀を討ち取った佐久間盛政の娘が、中川の次男と戦後に結婚している。
虎姫 (中川秀成室)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%A7%AB_%28%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E7%A7%80%E6%88%90%E5%AE%A4%29
中川 久盛(なかがわ ひさもり、文禄3年7月15日(1594年8月30日) - 承応2年3月18日(1653年4月15日))は、豊後国岡藩の第2代藩主。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E4%B9%85%E7%9B%9B
初代藩主・中川秀成の長男。母は佐久間盛政の娘(新庄直頼の養女)・虎姫。正室は久松松平定勝の娘(徳川家康の養女)。
子に中川久清(長男)、娘(水野忠職正室)。官位は従五位下、内膳正。賤ヶ岳の戦いで敵味方となり戦った中川清秀と佐久間盛政を両祖父に持つ。 >>140
親兄弟の仇と婚姻多いよな、大は家康娘と池田恒興息子
遺恨を残さないようにする秀吉の方針かな? >>143
仙千代は次回くたばります
万千代はまだまだ先があります 村重も将軍家の直臣になれるのか。
一族を皆殺しにされて大出世とか、さすが道糞さんや >>142
池田輝政は、最初は、嫌がっていたみたいだよ。
家康の娘との婚姻について、秀吉の命令に従うように説得したのは、
池田家の家老の伊木忠次という忠臣だよ。
輝政は父と兄を討った徳川家康を恨んでおり、
輝政を懐柔するために家康から秀吉を通じて次女・督姫との婚姻を持ちかけられていた。
忠次は輝政から拒絶の相談を受けていたが、有効な解決策を見出せずにおり、
結局輝政は文禄3年(1594年)に正室の糸姫(中川清秀の娘)との離婚に踏み切り、督姫を継室に迎えることとなった。
しかし秀吉の死後、輝政はこの姻戚関係を利用して家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して
岐阜城の戦いに参戦した。
忠次は輝政を補佐して8月22日、岐阜城攻防戦の際に上宮寺に対して文書を発給している(『上宮寺文書』)。
慶長6年(1601年)、戦功を認められ輝政は姫路城52万石に加増され、筆頭家老の忠次は播磨三木城3万7千石を与えられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9C%A8%E5%BF%A0%E6%AC%A1 >>146
中川の娘の糸姫は、表向きは精神異常という事で池田輝政と離縁された。
そして、家康の娘の督姫と輝政は再婚した。
糸姫は、先に池田利隆を生んでいたので
督姫にとって、先妻の子の、池田利隆は邪魔だった。33歳で病死する。
33歳という若死のため、継母の督姫に毒を盛られていたという俗説も存在する(毒饅頭事件)
33歳という若死のため、継母の督姫に毒を盛られていたという俗説も存在する(毒饅頭事件)
その息子が、池田光政だよ。
輝政の孫が、池田光政 >>142
非常に興味深いエピソードに
池田輝政の孫である、池田光政の政治の基本が、同性愛の弾圧だった。
岡山藩で、江戸時代の初期に、同性愛は禁止されていた。
衆道を嫌悪し、同性愛を激しく弾圧した。
光政にとっては男色はかぶき者と同列の存在であり、断じて許すべきではないものとして、
光政は男色を「大不義」と呼んだ
1658年、男色が原因で死者が出る刃傷沙汰が起こり、関係者が切腹や追放などの処分を受けたこれを契機として
光政は男色の規制を強化し、
男色があった場合迅速に家老に連絡するよう命じた。
光政にとって、男色を規制することは彼の信条とする「仁政」であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF 中川腹の子孫が備前池田、徳川腹の子孫が因州池田かな
途中で領地の交代もあったはず
筆頭家老伊木家は明治まで続いて池田藩の最高実力者だったはず ●宇喜多直家の計略に、ホモ大名には、美少年を刺客として送り込むというのがある。
●荒木村重から見たら、織田信長は、ホモの変態で、村重はノーマルだったのかもしれないな。?
●水戸藩と、岡山藩と、米沢藩は、ホモ禁止命令を出しているが
薩摩藩は、変態な藩なので、ホモが蔓延した。当時にエイズがあったら、薩摩藩は滅んでいたと思う。 中川清秀のせいで、とばっちりを受けた人
日本古今人物史
宇都宮 遯庵(うつのみや とんあん、寛永10年2月30日(1633年4月8日) - 宝永4年10月10日(1707年11月3日)、異説では1709年没)は、江戸時代の儒学者。
1675年(延宝3年)と1680年(延宝8年)の2度にわたって著作「日本古今人物史」で、豊臣家臣・中川清秀のキリスト教関係記述部分について、幕府から指摘を受け、岩国で数年間の禁錮に処された。
その後、京都に上ったが、岩国領4代領主・吉川広正の招きにより帰郷した。朱子学を教える塾を開き、多くの門弟を集め、周防吉川領での教育に従事した。また周防国徳山藩主・毛利元次に招かれて、徳山でも朱子学を広めた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E9%81%AF%E5%BA%B5 ここまで見せ場を作ってるんだから
道糞から道薫に改名して官兵衛と再開、和解して死ぬとこまで描いてくれるんだろう
…多分 そりゃ再登場はするだろう。
「生きられよ。」→「生きました。」のコンボを仕込み中。
でも、変な脚本だからなあ。 >>152
別所長治・吉川経家・清水宗治と対比される存在だろうな >>153
第1回アバンで「生きられよ!」→切腹
の北条氏政が不憫で…。
「これはしたり。それがしは氏直に向けて言ったまで。命の使いみちでございます」になるのかな。 6月7日の土スタに出演決定ってことは
まだもうしばらく出るってことか >>155
官兵衛は氏政も助命するつもりだったが秀吉が殺してしまう
もう敵がいないので情けをかける必要が無いから
それから秀吉と官兵衛の間に溝が出来る
長曽我部や島津は領地残されているのに、北条は領地没収で切腹
この差は何なんだ? >>155
一人の切腹で多くの命が救えるならそれもまた適材適所な命の使い道だね 磔になること知ってて裏切り見過ごした奴がよく言うよという意見もあるが 中国やイタリアにも、自分の子供が殺されそうになったら、
子供など、また産めばよいと言い切った人間がいたよな。
1番下の赤ん坊だけは、乳母の機転で生き残るけど、
赤ん坊は、その後は絵描きになって、ぐろい画風の作品を書くような人になってしまった。
岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、 天正6年(1578年) - 慶安3年6月22日(1650年7月20日))は、
江戸時代初期の絵師。
又兵衛は通称で、諱は勝以(かつもち)。通称「吃の又平(どものまたへい)」
摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主荒木村重の子として生まれる[1][2][3]。誕生の翌年・天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、
信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。
落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される[4]。
成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り[1][5]、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕えたという[1]。
文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。
信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである[6]。
大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩主松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、
北庄(現福井市)に移住する。
忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごす。
寛永14年(1637年)2代将軍徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、3代将軍徳川家光の娘千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む。
20年余り江戸で活躍した後、波乱に満ちた生涯を終える。
家は福井に残した長男岩佐勝重が継いだ。
また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれる[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E4%BD%90%E5%8F%88%E5%85%B5%E8%A1%9B リストラされた、村重のひ孫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E4%BD%90%E5%8B%9D%E9%87%8D
孫は、岩佐 勝重(いわさ かつしげ、慶長18年〈1613年〉? - 寛文13年2月20日〈1673年4月7日〉)
ひ孫が、勝重
勝重の子の陽雲以重も父同様、福井藩に仕えて絵事御用を務めていたが、貞享3年(1686年)福井藩の領地が半減され以重ら絵師も解雇、岩佐派は衰えてしまった(福井藩士としては存続)。
長谷川等伯の弟子長谷川等哲は弟ともいわれる(『岩佐家譜』)。 ●訂正 孫が勝重
ひ孫が、陽雲以重 (リストラされた)
某サイトより引用
@ 『三百藩家臣人名事典 3』(新人物往来社)によると
岩佐又兵衛:天正6年(1578年)〜慶安3年(1650) 画家。名は勝以。
摂津伊丹城荒木村重の末子として生まれ・・・元和初年40歳の頃、福井に移住。・・・
嫡男源兵衛勝重が又兵衛の工房を継承し、福井藩の絵師として活躍、
その家業は嫡子陽雲以重が継承。
陽雲は貞享3年浪人となり、後に越前松岡藩に茶道兼医師として召し抱えられる。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000047164 このドラマでは村重は命ほしさに一族郎党を残したまま敵前逃亡らしいな
手に持っていたのは信長にもらった茶器かな
正しい裏切りの方法を宇喜多様に教えてもらえよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています