源 頼朝を大河でやらないわけとは
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やらない不思議の3大武将
1位は源頼朝
2位は足利義満
3位は藤原秀郷 >源頼朝
■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
11世紀
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、私領を三河国碧海郡志貴荘として立券する、知行は保相→資良(保相の息)→惟信(資良の息)→惟信の娘(平信範の母)が伝領した
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後に
鳥羽殿)
・季範(三河四郎大夫)は、藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる 12世紀
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1130年、季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)が、三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で死去する(城ヶ峰(愛知県新城市)の山頂に墓あり)
・1136年、藤原顕長(父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が 三河守になる
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を五男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
13世紀
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する ←足利王国の誕生 金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・公暁
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) ・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
葛山氏
大森葛山系図は内大臣藤原伊周の後裔としているが真偽のほどは不明。
大森葛山氏の祖惟康は三河高橋の領主で甲斐・駿河両国の守となり,以後大森氏は親康,親家と続いて鎌倉御家人を輩出した。
葛山氏は親康の弟惟兼の流れをくむもので,惟兼の子惟忠を経てやはり鎌倉御家人を多く出している。
大森葛山の祖・高橋惟康
「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」
寺部八幡宮(愛知県豊田市社町1)
寺部八幡宮は、平安時代に高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村の館内に、石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりです。
その後、惟康の子孫高橋氏が、長承2(1133)年3月15日再勧請造営したのが始まりです。
往事は数多い神宮寺を有していたと伝えられていますが、現在わずかに悟楽寺、儀隣寺の二ヶ寺の寺名のみ伝えています。
不動堂館(愛知県豊田市上野町1丁目)
平安時代(794〜1185/1192年頃)、藤原北家の流れを汲む高橋惟康は伊勢国に生まれ、伊勢新二郎大夫と称した。
母三位女の所領三河国加茂郡高橋荘を相続し、荘内の高橋郷〔上野町1丁目〕に在住して高橋殿と称され、三河国高橋氏の祖になった。
1060年惟康は駿河国へ移住。惟康の遺蹟として社町八幡社〔豊田市社町〕、神明神社〔豊田市上野町7丁目〕、香良須神社〔豊田市市木町谷耳太〕などが考えられる。
場所は上野町1丁目とされ、現在は畑地、住宅となり、遺構は無い。 ■金剛三昧院(和歌山県伊都郡高野山425番地)
愛染明王
http://www.kongosanmaiin.or.jp/attractive/aizen_myouou/index.html
当院の本尊、愛染明王(あいぜんみょうおう)像は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公が亡くなった際、正室の北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し
、頼朝公の等身大の坐像念持仏(ざぞうねんじぶつ・今日の愛染明王像)として作成された、当院建立の原点となるものです。
■滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
聖観音菩薩立像
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html
熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。
仏師は運慶とその長男湛慶で、頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。
・寛伝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝
法華堂阿弥陀仏(消失)
建長7年(1255年)、滝山寺で足利義氏の一周忌法要が営まれた際、、法華堂が新たに建てられ、出家し尊観と名乗っていた足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))が
、その本尊である阿弥陀仏を高野山より迎え、義氏の遺骨を胎内に納める
・足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)→足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))
関連事項
■専長寺(愛知県西尾市吉良町吉田斉藤久100)
阿弥陀如来坐像(本尊)
http://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/8,14707,91,408,html
鎌倉幕府3代将軍源実朝の菩提を弔うために夫人の本覚尼(ほんがくに)が京都に建立した遍照心院大通寺の本尊であった。寛喜3年(1231)に落慶供養会が行われた(『名月記』)。
明治初年の廃仏毀釈で編照心院が維持困難になったため、浄土宗西山深草派の本山誓願寺に移され、明治17年に同派の専長寺に本尊として安置された 義経2回やるくらいなら、
新平家物語と清盛をやるくらいなら、
頼朝を1回やってもいいかも、と思うのだが・・・。 形式的には草燃えるは頼朝(石坂浩二)がトップだよ
でも途中退場する
北条政子(岩下志麻)の物語だが、真の主役は北条義時(松平健) え・・・・・
伊東祐之(滝田栄)が真の主役だと思ってた 清盛もそうだけど義経死んだ時点で同時に頼朝の天下、新しい時代になりました
で節目で終わりになるし、
その続きを描くならば北条氏描けばいいわけだし
わざわざ頼朝視点でドラマ作る必要性があまり出てこないから。 >足利義満
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する 【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する できるだけ、頼朝と大河に関わるようなレスにしてくれ。 >>1
鎌倉においても人気あるのは義経で頼朝は人気が無い
もし頼朝が人気なら、あんな山の中ではなく
駅前に堂々と頼朝像が建ってるはずだ 思うに…
歴史上鎌倉時代をある程度否定しなきゃいけない時代が有ったからだと思うね
それは戦国時代
どこの馬の骨とも分からん新興勢力が旧体制を打破する時代
「新しき世を創るのじゃ」とか言ってる連中にとっては旧体制の連中は目上のタンコブ
支配体制は継承しつつも、徹底的に弾圧していかなきゃならない
その名残として義経人気がある
彼を時代のスターとして扱う事によって、頼朝を暗に否定してる
同じ手法を明治政府もやってる
再来年の大河ドラマ「真田丸」の主役真田幸村こと信繁だ
現代に残る真田人気は徳川幕府否定に走った明治政府によるプロパガンダの側面がある
彼の役割は義経と同じだ、徳川憎し
だが、それは長くは続かなかった
第二次世界大戦による敗北で、明治的政治手法が完全否定された事によって
徳川幕府の復権が行われる、その急先鋒が大河ドラマだと思う 頼朝 マツケン
政子 上野じゅり
由良御前、八重姫(二役) 柴本
これでどうや?
フカキョンの亀の前はいいかも。
裸で家を追われたりとか。 頼朝主役の小説がすくないもんな
吉川英治も山岡荘八も途中で終了しちゃったし。 頼朝自身に目を見張るような活躍する場面も少ないからな
武士ではあっても政治家っつーほうがあってるような気もする人物だし
なにより平家滅ぼしてからの弟たちへの非情な振る舞いは見る人を選ぶ気がするなあ >>22
頼朝が過小評価されているかもしれないのか。
逆に真田信繁の人気は作られたものだったと。 兄弟や親族を殺しまくった報いが子孫に来た典型。
自分の孫公暁が息子実朝を暗殺して血統終了。
あの世の頼朝も、さぞ自分の行いを悔いただろうな。
それぐらい陰険な人物はさすがに主人公には出来ない。以前あったらしいが、政子を主人公にして準主役にするのが最適。 >>26
意外と知られていない寿永三年宣旨以前の東国の内ゲバを描けば見どころあるかも
石橋山脱出→房総上陸→いきなり襲われる→かろうじて撃退→少しずつ仲間が増える
→秩父一族を味方につけてから快進撃→甲斐源氏の活躍→義仲の活躍→
富士川→
佐竹征伐(本人出陣)→新田降伏→義仲と甲斐源氏と頼朝の東国三すくみ
→墨俣合戦→行家転がみこみと追い出し→
野木宮合戦→義仲とのにらみ合いから和睦 昔、高橋幸治が頼朝だったのをかすかに覚えてる、ゾクゾクしながら見てた
新平家物語かな、今思うと豪華絢爛キャストだった
当時、高橋幸治の頼朝主役で見たいと思ったが、大河では暗いよな、終わり方も難しい 清盛だって準主役は頼朝みたいなもん
熱田の生誕から京の少年時代、平治の乱の初陣から伊豆の幽閉まで
あそこまで完璧に頼朝の前半生をやるってないぜ
由良ちゃんも八重姫ちゃんも両親の出会いから完璧にやってこれ以上何を望む?
頼朝大河ってスタートから5月くらいまでこういうのやるんだぜ
『昨日が今日で』を2ヶ月やられてみ
誰がそんなん見るねんって話になるわ 決起後は鎌倉からほとんど動かないし
たまに動いたと思ったら愛人宅だからじゃね >熱田で生誕
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる
>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)
当時、殺伐とした内部対立があった中、
頼朝が尾張で生まれるわけないだろうw ・尾張氏(古代豪族)…尾張員能→女(尾張氏)→藤原季範→娘→源頼朝
・尾張氏(古代豪族)…尾張員能→女(尾張氏)→藤原季範→娘→足利義兼…足利尊氏
三河馬鹿はなんで源頼朝や足利尊氏の女系を最重視しておきながら(男系はなぜか無視)
その女系が古代豪族・尾張氏に繋がることを無視するの?
だから基地外だと言われるんだよ ・尾張氏(古代豪族)…尾張員能→女(尾張氏)→藤原季範→女→源頼朝
・尾張氏(古代豪族)…尾張員能→女(尾張氏)→藤原季範→女→足利義兼…足利尊氏
三河馬鹿はなんで源頼朝や足利尊氏の女系を最重視しておきながら(男系はなぜか無視)
その女系が古代豪族・尾張氏に繋がることを無視するの?
だから基地外だと言われるんだよ >>33
挙兵前後から死去までばっちり→草燃える
生誕から挙兵前後までばっちり→清盛
通しがないわな。
>>34
富士川、佐竹攻め、義仲との対峙、伊豆旅行、坂東エリアの寺社参拝
ときどき黄瀬川出陣デモンストレーション、奥州征伐、上洛、巻狩り
と一応は動いている。
篤姫よりは移動していると思われ。 頼朝って誰を暗殺してる?
割と堂々と攻め滅ぼしているんだが
身内同士の殺し合いなら弟殺しの伊達政宗、足利尊氏、織田信長、
子殺し妻殺しの徳川家康でも大河になってるぞ
(兄殺しの北条時宗は兄が死んでいなかったとして大河で改変してた) 目代山木某を数人でカチコミかけてなぶり殺しにするところとか、詳細にやってくれるなら見たいかな
屋敷が燃えるシーンを背景に平家打倒の兵を挙げました的当たり障りのない演出ならいらん 結局義経が人気者過ぎて頼朝は敵役にならざるを得ないな。 >>32
この何年後かに私もこの世を去るのだが
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