大河が終わった後に、スピンオフで黒田騒動をやってほしい。

黒田騒動(くろだそうどう)は、福岡藩で発生したお家騒動。栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。
伊達騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。

長政は世継ぎ継承にあたり長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決め忠之に書状を送る。
書状には二千石の田地で百姓をするか、一万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるかと
非常に厳しいものであった。
これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に進める。
そして六百石以上二千石未満の藩士の嫡子達を集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。
この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去。
そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し次第に距離を置くようになる。
忠之は寛永元年(1624年)藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、
生前の長政が憂いていたとおりにお家騒動へと発展した。
忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。
そして十太夫に命じ豪華な大船・鳳凰丸を建造、更に200人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。