真田丸で三谷はどんな歴史への冒涜をするのだろうか
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まぁ正直、三谷に脚本書かせる事自体が
真田信繁への冒涜だと思いますけど。 >>1
するわけねーだろ。
清洲会議見てないのか? >>2
松姫が三法師の母だなんてとんでもネタを活用してたけどw
三谷先生はドラマ性を重視されたのでしょうかね
あの大映ドラマの懐かしの「おんな風林火山」でさえも
アリエネー逢瀬はしてたけど白昼のことで夜では無かったのぞ 歴史への冒涜?
他の脚本家のことは棚に上げ、
単に三谷を叩きたい為に立てたスレw
悔しいのだろうね。御贔屓が出そうにないし。 三谷は他の脚本家に比べたら歴史への敬意は払っているよな >>3
逢瀬が昼とか夜とかどうでもいいそこがポイントなのかよw
お松実母説ないし信忠お松熱愛説を批判したいならもう少し深く掘り下げれ 敬意がないというより、思い入れが強すぎて暴走って感じ 兜の愛はラブの愛
とか言ってた脚本家がいるのに三谷を叩くってどんだけw >>6
「松姫が三法師を母という説」
は、ここ十年ほど前に「我が家の先祖は三法師」と自称するN山家が
突然に言い出しネット等も利用して吹聴した事でもある
証拠だという「覚書」は「門外不出」として公開もせずにいるが
名古屋の何処かの図書館にコピーが残されていて
それには「織田信忠の母は吉乃という名」という記述があった
なので「武功夜話」が世間に流布してからの創作だと判断もされている
また本能寺の変直前に信忠の使いが八王子の松姫を迎えに来て、
ともに上洛したが時すでに遅し・・・という逸話は
その一家臣が自家の家系図に書き込んだこと
他にそれを立証する史料等は何処からも発見されていない
もちろん八王子の信松院の歴史にも見当たらない
織田家の文書にも信忠と松姫の「熱愛説」なんて無い
「おんな風林火山」での面白い盛り上げとしてならOkだけどなw
ってそっちも「お松実母説」を支持してるのなら根拠あげて下さい 荒れ防止のために横から失礼するがスレの空気が悪くなるから>>10氏に
限らず肯定も否定もできないものに関して断言的に書くのは
注意した方がええのではないかなと。
歴史というのは○○史観という言葉があるように人によって捉え方も
考え方も違う。
清須会議(←この表記加えて玄以と松姫がえらく懇意の段階で察しろと
俺は思うが)を書く上での三谷史観では西山家文書を採用した。
それだけのことなんだろうと思う。
蛇足ながら熱愛や子供どうのは別として一次史料上で確認ができず
婚約自体が無かったと言う人間もいる両名の婚約話だが、
土御門家文書_宮内庁所蔵(もちろん一次史料)に両名の婚儀に
関する記述があることがわかっている。
信長が土御門家筆頭に対し織田若獅子(信忠)と甲斐信玄息女(松)の義に
ついて暦調を命令という内容。(時期は1571年と推定)
もちろん土御門なんていう名門への暦調命令だから信長の独断でできることではなく
信玄からの打診も受けてなんだろうが、まあ信忠と松姫の伝説が生まれる
きっかけとなることが存在したのは間違いないだろうよ。
ここから先に関しては各々好きに思えばいいんじゃなかろうか。
そして、この文書はまだ研究段階で天正年間全てが解明されたわけじゃない。
天正10年遅くとも5月頃の間にこの両名に関して同じような記述があれば
また見えてくるものもあるだろう。 >>11
戦国板でその文書について検証の流れになりつつあるスレがあるのですが
そこによるとその文書にある閏月がおかしいらしくもし月の読み間違いなら
閏月から天正五年の可能性も考えられるみたいです。
もし天正五年だったなら…長篠の後ですし婚姻同盟まではいかなくても、
松姫を織田にお預け(という名の実質嫁入り)することで講和ぐらいには
持ち込んでいた可能性もあるのかな?と…。素人考えですみません。 天正5年か…
勝長が長篠の後も大事にされていた様子で考えれば
そういう線も考えられなくはないかも
勝長はそのまま武田に預けておくから代わりに松をよこして手打ちと
そうすれば人質関係では両者フェアになるわけだからね
で、織田はその後上杉と手切れ→その上杉と武田が同盟→松、甲斐に返される→
甲江和与膠着(徳川が何か裏工作したか?)→御坊が織田に返される
→武田討伐へという流れがあっても不思議ではないかな。 仮にその推測みたいな流れがあったとすると時期にもよるが松姫が
信忠の子供を産んでいてもおかしくはないということにもなりかねないわけか。
妊娠中に返されることになったか返される直前あたりに妊娠がわかって
身が二つに別れるまで留め置かれて美濃か尾張で産んで子供は岐阜城へ
松は甲斐へみたいな流れがあったとしても不思議じゃないからな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています