●逃げ足日本一●仙石秀久を大河の主役に

仙石秀久とは
豊臣秀吉の最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。
戸次川の戦いで大敗を喫したのち、逃亡したため改易されるが、
小田原征伐の活躍により許された。

「豊薩軍記」は戸次川の戦いの失態について「四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」と痛罵している。

●仙石 秀範(せんごく ひでのり、生没年未詳)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。仙石秀久の嫡男
仙石秀久の次男として生まれる。母は野々村幸成の娘(本陽院)。慶長4年(1599年)、豊臣家から3000石を与えられて従五位下、豊前守に叙任された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、戦後、東軍に与した父から廃嫡された上に勘当されて浪人となり、
出家して京都で寺子屋の講師を務めていたという。
慶長19年(1614年)に大坂の陣が始まると、大坂城に入って豊臣方として戦った。このとき、豊臣家から大名衆として3万石前後の所領を与えられている。
しかし翌年の夏の陣で豊臣氏の敗北が決定的となると、丹波に逃亡した。
その後の秀範の行方は不明である。夏の陣で討死したともいわれている。
ただし、10歳になる息子長太郎は伯耆で捕らえられ、夏の陣後の閏6月22日に六条河原で乳母の子供と共に斬られ、晒し首にされた。
ほかに徳という女子がおり、叔父の仙石忠政に預けられ、寛永12年(1635年)に没した。