大谷刑部が業病に罹っているというのは当時から公然?だったと思われる。
敦賀6万国の大名なのに妻が全く不明、息子大学吉治も嫡男でありながら縁組みの記録がない。
城主クラスでこれほど閨閥少ない大名は他に例を見ない。
唯一縁組みの記録は真田信繁のみ。
業病持ちの家と縁組みすると業病を引き継ぐという迷信が当時は信じられていたからだろう。
ちなみに信繁が吉継女との間に子をなすのは九度山以降。
それまでは側室ばかり可愛がったのか、側室腹の子しか生まれてない。
大谷の娘を嫁にと言われた時の信繁の心中やいかに・・・