秀吉の播磨攻略の実態記す書状
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20180315/3070741.html

戦国時代に織田信長の指示で今の兵庫県の攻略を進めていた豊臣秀吉が、
有力者に対して信長に服属のあいさつをするよう記した書状が新たに見つかりました。
「あなただけがあいさつをしておらず心配しています」といった文言があり、
調査に当たった専門家は、攻略の実態だけでなく秀吉の焦りも読み取れるとしています。
この書状は、東京大学史料編纂所がインターネットオークションで購入し、
汚れを落としたり破損箇所を修復したりしながら解読を進めたところ、
花押が秀吉の直筆とみられることなどから秀吉の書状と判断しました。
天正5年、西暦1577年に、今の兵庫県南西部にあたる播磨の攻略を行っていた秀吉が、
服属の意思を示した有力者の間嶋兵衛尉に宛てた書状で、
信長にあいさつに行くよう促す内容が記されています。
信長は天下統一を進めるうえで西への拠点となる播磨を重視し、秀吉に攻略を命じていましたが、
具体的な実態が記された当時の史料が確認されたのは初めてだということです。
書状には「有力者たちがあいさつをするなか、あなただけがしておらず、心配しています」といった文言があり、
調査にあたった村井祐樹准教授は、信長からの叱責を恐れる秀吉の焦りも読み取れるとしています。
村井准教授は「当時の秀吉の立場やふるまいが読み取れ、この時代を研究するうえでとても貴重な史料だ」と話しています。
村井准教授によりますと、戦国時代の播磨では有力者が各地に拠点を持ち、秀吉の攻略は順調には進みませんでした。
信長から攻略を命じられた秀吉は、播磨出身で信長の配下にあった黒田官兵衛を従えて攻略を行い、有力者を服属させていきました。
今回の書状はその一端を示すもので、服属の手続きとして信長へのあいさつが必要なことなどが明らかになりました。
しかし、服属を誓った有力者が裏切るなどして攻略は順調には進まず、中でも別所氏が拠点の三木城にこもって抵抗を続けたことから、
秀吉が播磨の支配を確立するには3年ほどかかったということです。

まさに軍師官兵衛のころだな!丸の信濃や直虎の井伊谷もだったけど、播磨もなんか複雑だな
しかしオクで秀吉のホンモノ書状が出るなんてすごいねw