【2012年大河ドラマ】平清盛 Part177©2ch.net
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安倍総理万歳!!日本国万歳!!
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-====- -====- >>523
おまえ一話切りしたくせに何年粘着してるの? 遊びの歌の解釈については複数あるようだが、門外漢なので手に負えない。
中でも、戦後を代表する批判的知識人ー藤田省三の解釈にギャフンとなったので紹介したいのだが、
例によって行方不明すんません。生の歌どころか真逆解釈をしていた。
とはいえ、生への弛まぬ志向性と捉えて徹底的に活用された本作における遊びの歌は、
オーソドックスな基盤に依拠するもので、雄弁なまでに清盛物語の核の一つを主張し続けた。 現大河に比べてヒロインと止めクレジットは清盛は随分恵まれてたね。
大河ベテランの中井貴一はきちんと演技して物語引っ張ってくれて殿上の闇討ちもやってくれたし、時子も可愛いだけじゃなく、有名な入水場面やってくれたし。
現大河のヒロインと止めはもう邪魔過ぎて視界にいれたくねえよ。 時子の軽率な行動のせいで生き残った平家一門は池禅尼系以外皆殺し みっけた『語る藤田省三』(岩波現代文庫)
梁塵秘抄のこの歌を、ある人(西郷信綱)は遊女が身を乗り出して踊りださんばかりの「身体性」から解釈し、
また在来の解釈は(小西甚一)仏教的無常観を見たりしているのだが、果してそうか。
ちょうど子供が散々遊び呆けて、疲れきって草むらの上にゴロンと仰向けになってボンヤリ雲を眺め、
眺めているうちに子供がボンヤリと雲に同化していくように、「我が身さえこそゆるがるれ」は、
疲れきった遊女が窓の外に遊んでいる子供たちの世界に同化する、そういう疲れきってボンヤリと身も空疎に同化する、
そういう世界を表しているのではなかろうか。
「よろずの仏にうとまれて 後生我が身をいかにせん」よいう歌のように梁塵秘抄は疲れきった世界なのだ。
それがどうして身を踊り出せるだろうか。
清盛は第一説の「躍動する身体性」に近いことが分かる。
この文章に続けて、くたびれた人間が安心してそこへ行ける世界として、淡い色彩を基調とする叙情的で誰にも
受け入れられるような竹久夢二の挿絵、さらに春秋戦国時代における老荘思想の受容形態を指摘した上で
(孔子はああしろこうしろとアドバイスするからいよいよ疲れてしまう)、刀と弓に代わって金と言葉が忙しく回転する現代は、
人間がくたびれまくる「春秋戦国時代が日常化」した時代だとする。そして
「同じことが平安時代にもあったわけで、それが『梁塵秘抄』の世界。遊女は踊り疲れているのにどうして身を
乗り出さんばかりに踊れるのか。退廃美。退廃の持っているキャパシティの大きさ、退廃しきっている人間の持っている優しさ
が出てくる。単なる身体性だけではない」
とまとめる。 またくたびれた老人がさして斬新でもない説を長々とw もはよー
曾祖父さんさー、得意の気の利いた()一行レスで良いから、
リアルで見た半世紀前の大河新平家の魅力を俺ら若者に伝えてくれよーw 爺さんが長文でクダ巻いてるだけのこのスレじゃ語るなと言う事だなw それは残念だにゃ
ひいお爺ちゃんが蘊蓄傾けた昔は良かったーを若い衆はみんな聞きたいのにさあー
記憶はあっても自信がないのかにゃw 大河新平家って愛宕山のNHKに台本収蔵されてるのかな? 真面目な話、台本が残っているのならば読みたい。
継ぎ接ぎだらけの僅か3時間の総集編で評価するのは心苦しいゆえ。
しかし、アレだけ見て清盛と比べものにならんとか、どう行間を読んでも出てこないので、
そう主張する以上、全部見た人生の先輩方なんだろう。たぶん。。
で逆に、売られた喧嘩に仕方なく、総集編でも比較可能な限りで目に留まった問題点を指摘してきた。 不肖長文が短文にて大河新平家の魅力をアピールするならば、「格調高い」に尽きる。
これについては大河清盛は敵わない。
しかし、「躍動する平安、そこに現れた革命児清盛」なるメインテーマからすれば、そもそも論として、
古典的で静的な新平家的世界を克服することから始まった企画なのであり、
格調高くない、しっちゃかめっちゃら暴れる清盛で正解なのである。
何故今〇〇なのか?大河はこの問題意識無くして企画されてはならないーこれが拙者がこだわる制作姿勢だ、
どうも初めから忖度ありの国策大河が幅を利かすようになってしまった。 いたでんは周りから言われるほど国策色強くなかった
やべーのは吉田松陰の妹な、アレはどう考えてもおかしい いだてんは、国策オリンピックに便乗したエグい企画を引き受けながらも、
斜に構えたスタークドカンだけが為せる「関節外し」の大河だった。
個人的にはそれほど入れ込めなかったけれど、クドカンの戦略には恐れ入った。
花もゆの脚本家は、申し訳ないがPの雇われマダム。なのでアンラッキーでしたと
失礼ながら同情してしまう。
名作跳ぶが如くがあるのに、いま何故今西郷どんなの?
これに対する答えは、明治150周年を顕彰すること以外考えられず、西郷像を更新したい、
みたいな内から出る要求に欠けた。
そして、次は新札渋沢。
こういうチョイスが、低迷する大河の未来にとって相応しいとは思えない。 なぜ、当時「平清盛」だったのか?
今もってわからん。 >>540
そろそろ源平を差し込むタイミングだったから、じゃない?
2010年代の大河は清盛生誕900年でもなく大坂の役400年記念からも微妙に外してるのがよく分からん 戦国幕末ローテーションの端境期に、ポツンと産み出されるのが源平大河。
そのタイミングで、しかも従来の新平家や義経などでは描ききれなかった「新しい清盛像」
を提示する価値を見出して企画されたのが、大河平清盛なんだろう。 東日本大震災の後で日程消化だけが目的の非国策大河だったしな 新平家物語は人形劇は見たことあるな。(前よう○べにもあった)
清盛の家が貧乏だったり、時子が重盛の実の母だったり史実と大分違うところがあったけど、声優陣凄い良かったし、人形景色含めて綺麗だった。
大河ドラマ清盛は新平家物語とはまた違った良さだけどそれはそれで良い。
新平家物語では崇徳帝は善良な麻鳥が側に居て救われて良かったけど、怨霊化する崇徳帝を表現した大河ドラマ平清盛も良い。 天子様と遊び女の息子との間に日常的な関係があるわけないだろ。
つか関係性ゼロ???笑笑笑
・海賊船で吐き出して早くも(意識の上では)自我危機を克服した清盛は、
悩む崇徳に「出生に拘りなさんな。私はもうどうでも良いですよ面白く生きましょうよ」とアドバイス。
・「マツコと13年!私に与せよ」ーついにチャンスが巡ってきた崇徳が頼りにしたのは、
その助言を覚えていた清盛である。
素晴らしい関係性ではないか。大家でもふつうにやっちゃう設定忘れとか伏線未回収をやらかすには、
藤本の頭脳は高性能すぎた。 晩年の清盛はなかった事にするいきあたりばったりな藤本脚本w 落合はオレのせいじゃないと思ってるから今の麒麟の惨状なんだよなw 清盛と崇徳の関係性の終点が、鳥羽危篤の報に崇徳が駆けつけ清盛が立ち塞がった面会拒絶シーン
(「少しばかり遅すぎましたな。私には守るべきものがございます」)。
拒絶され失意で引き返す崇徳の後ろ姿を、清盛は万感胸に迫ったかのような眼差しで見送った。
(松ケンの決意に満ちた、しかし悲哀に溢れた目力を称賛した。これを見て、いよいよ
松ケンド下手、ミスキャストーと騒ぐ連中にファイトを燃したことを覚えている)
このシーンに感動する由来もまた、ババアどもが騒いだようなその場限りの「感動ポルノ」ではなく、
派生的なそれであってもきちんと積み重ねた両者の関係性にあった。
清盛は、心情的には可哀想で儚い、しかし執政意志も顕な(ここ重要)崇徳シンパですらあった。
そうでなければ、鳥羽と崇徳の和解周旋のため奔走したりしなかっただろう(友愛外交の挫折)。
崇徳の断固たるマツコと13年!は清盛を動かしたのである。 汚いものを汚いと直視できない平均的日本人には早すぎたドラマ チチウエーーー
真っ先に思い出すのが、國村忠実さん一世一代の退場シーンとなった、息絶えたオウム=死せる頼長
を抱き抱えて慟哭したシーン〜吾が子よーーーあああー
頼長のダイイングメッセージ〜それが、瀕死のオウムちゃんが発したチチウエーであった。
そして
考証2先生も涙したこの名シーンと共に忘れてもらいたくないのが、あれだけ修復不能なまでに
亀裂が走った鳥羽ー崇徳の関係性において、面会を拒絶された崇徳が振り絞るように発した「チチウエ」。
最後の最後で、崇徳は許すことのできなかった鳥羽を父と「逆認知」したのだ。
このような「すれ違ったままの父子の和解」に立ち会うことは、たぶんドラマでもほぼないだろう。 このようにドラマ化されると、清盛落胤説や崇徳白河父説の真贋などについては、
大いに歴史学者の先生たち、これからも諸説戦わせてください!
というしかない。俺の説と違うではないかと罵倒した先生方の何とセコく惨めなこと。
(この点、落胤否定説、王家不採用に立つ本郷先生の度量の大きさは特筆もの)
極端な少数説に立ったのならば別論、今でも有力な説に依拠して、そこから
へーーとなってしまう豊かな内容をたらふく引き出した大河清盛は、誰が何と腐そうと凄い。 日本史の摂関政治と院政、保元の乱を勉強してたら登場人物が多過ぎるので
このドラマの配役を見てイメージして整理した
放送当時は日本史の勉強してなかったので全く理解してなかった
今なら理解出来るからもう一回見たい
オンデマンドにも無いしTUTAYA行くしかないのか >>544
そうそうその通り。
歴史にさしたる興味がなかった頃、新平家人形劇を全部でなくてもかなり見た記憶があり、
平家の滅びの美学に共感した。
豊穣な物語世界を前に史実がーは虚しい(なので大河新平家についてもいちいち論いたくはない)。
然るに、滅びの美学ではなく、躍動する風雲児ー体制変革者清盛にスポットを当てて大河清盛に対して、
しかも歴史学の現在の水準を採り入れ、その基盤に立って驚くべき想像力と創造力を発揮した
「ファンタジー大河清盛」に対して、新平家を持ち出して「デタラメな歴史描写、浅薄な人物描写」はない。
こういう馬鹿くさい連中がいなければ、新平家と清盛は十分共存できるのだ。 >>563
8年持ちこたえたんだからあと1年強は大丈夫だろう
しかし現状でHV画質で見られる手段が事実上ないのは問題だわ 義時大河に合わせて次のBS再放送は清盛か義経?と想像するまでは良いが、
どちらが内定とか言えんでしょ。内部の人でない限り。
どこかのスレで義経内定と書き込むのがいて、ソースはと聞こうと思ったのと同じで、
次は清盛も、今のところ願望レベルを超えてない。 俺はどちらでも良いと思ってる。
ソリャ内容面からすれば清盛に決まってるが、義時大河へのスムーズな移行という観点からは、
陳腐な源平合戦描写に終わったにせよ、この部分を分厚く扱った義経の方が相応しい。
もっとも、現大河への接続というのならば、今期は花の乱あたりを期待したいものだが、
今やってるのは、さらに昔の鎌倉末期南北朝室町創成期を対象とした太平記。
つまり、大物脚本家繋がりのチョイスもありうるわけで、不祥事絡みで当面難しい真田ではなく
新選組という線も浮上してくる。 再放送は清盛がいいな。
演技はタッキーより松ケンの方が上手い。 タッキーが清盛演じてたら雲古漏れそうなんて脚本はなかった 大河義経は義経主従パートが大根すぎて地獄
壇之浦後は誰も支えになる役者がいないから見てて悲しくなる >>575
清盛はスターの男脚本家の誰それとは違って、いわゆる当て書きとは無縁の大河であった。
藤本に幾分かの希望枠があったとしても、歴史上の人物というのに、俺、私が指名したお気に入りの役者に合わせて
キャラ造型する本末転倒はなかった。これは山ほどある大河清盛の誇るべき利点の一つである。
それゆえ、お笑い芸人枠(兎丸)であろうと歌手であろう(祇園女御)であろうと、尽くドンピシャ嵌ったのだ。
この人物造型だからこのイレギュラーな配役がなされた_このような正しい思考方法を清盛Pは貫いた。 >>578
>このような正しい思考方法を清盛Pは貫いた。
そのPは磯さんの方ですよね。
後半支えになる役者がいない地獄とオリキャラ地獄はどっちが泣けてくるかな。ゲッソリ もちろん磯Pのこと。Pが二人体制の場合、全体を差配するのはほぼ単独でP1だろう(P2は言って見ればパシリ)。
清盛後半が超大物役者不在であったことは確かで、それに伴う困難を抱えたことは否定しない。
しかし、今をときめく若手と堅実な中堅どころのコラボを見れば、それを地獄と総括する訳にはいかない。 >>577
あの第1回が悲しくなるのはかなりやベー奴だぞ 院の御所が血に染まるわけないじゃないーーーと初めから手ぐすね引いて待ち構えていた喚いたババア、
そして王家がーのウヨを別として、
タブララサの視聴者は、単純にドラマ初回の出来として圧巻、そこまでいかなくともこれから楽しみ
という意見が多数であったと記憶する。
何しろ、最終回まで目ひん剥いて付き合わない限り、いや2周、3周しない限り、この初回の本当の凄さは
伝わらないのだから、「悲しい出来」と嘆くジジババに対しては、ご同情に留めるのが良いと思います、・_ 最近、豪華公用車とかでまたまた話題を振りまいてる現播磨守の初回感想〜汚いーーーーは、
不用意で無邪気な発言内容以上に波及効果が痛かった。
これにマスコミが飛びついたことで瞬く間にSNSへと拡散し、清盛=汚い=平安冒涜=不正義
なるバッシングが始まってしまった。
さらにこの影響もあって視聴率が下がると、今度は低視聴率=駄作なるレッテルと印象操作が白昼公然となされ、
俺含めた少なからぬ人々が清盛の魅力を語っても、もはや多勢に無勢となってしまった。
それが2012の真実であり、清盛が経験したネット時代のデマゴギーがもつ恐ろしさは、今般の学術会議事案において、
学問の自由だの民主主義だの法の支配だの、そういう基幹的価値に照らして大袈裟に論じなければならない次元にまで
進行してしまった。 デマだったら一時的に騒がれてもすぐ沈静化しただろうな いだてん初回については
率直な感想として、少々とっ散らかってんではないのと申し上げた。
そこから強力に収斂させていくだろうとの期待込みで。
ただ、最終評価としても、落語パートが全体に融合し効いていたとは思えない。
それにつけても、多元実況中継により各パート間が生み出すダイナミズムを拡張しつつ、
あれこれ手練手管を尽くして時空間緊密に連結しまくった清盛を、とっ散らかってたーと喚き続ける
おんなビジウヨおんなの「とっ散らかった」オツムには恐れ入る。
いだてんの落語は「清盛の王家源氏とは違って」溶け込んでおり、オリキャラ無双の麒麟は
「清盛のようなお子様ランチ」とは違う大人の脚本なんだそうだ。 清盛は主人公以外の登場人物の描写も結構きちんと描いてくれたし、悪い作品とは思わない。
むしろ貴重だったなと思うよ。今の大河のように無駄なオリキャラ無双で周りの登場人物の見せ場減らしたり、上げ要員にしてるとこ見るとつくづく思う。今回の摂津の小物じみて軽すぎる悪役演技も目に余る。藤原摂関家みたいに貫禄ある悪役こなせる人があんまりいないのか? 無駄な史実キャラが一杯で主役が幼稚で田舎臭く貧相だったのが清盛 非常に不思議な現象の一つに、おんなネトウヨとか5ちゃん与党党首とかに典型的な態度ー
すなわち、叩いても安全な作品、脚本家に対しては、口汚い罵倒を浴びせるというのに
(キンジパの爪の垢を呑んで出直せ。ボンクラ官兵衛)、ビジネス上叩いてはいけない、あるいは叩いたら損となる
大家や売れっ子に対しては、絶賛するのは良いとして、多少の不満がある場合もスルーしたりモゴモゴ誤魔化す
ヘタれた態度がある。
麒麟で言えば、これだけオリキャラ問題が焦点となっているのに、これについて真正面から擁護するどころか、
見て見ぬふりを貫きながら、他作をバカにしつつ自分が良いとする点を打ち出して絶賛している。
俺は逆に、清盛へ向けられた批判、罵倒、冷笑に真正面から応答することで清盛の魅力を訴えてきた〜
和歌もどき、鳥羽エア矢、一騎討ち、滋子巻毛など。
出羽 真正面からゴマかしまくることでさらなる失笑を浴びていた >>590
お前松ケンが出てない第1回を貶してたのに説得力ないぞ 整理整頓が苦手で友達が居ない陰キャラが制作した大河 確かにオツムの整理整頓が苦手なお前には、初回からしてハードルが高すぎた。 伏線回収ドヤーが大嫌いになってしまった。
伏線は、物語の意味世界を、時間軸ータテ軸から統一性あるものへと構築するための有力な手法といえ、
必須ですらある。
これを否定しないし、伏線一つない、ただ事象を時系列で並べていくだけのほとんどの昔は良かったーは、
一つの物語構築へ向けた表現意欲に欠けると思わせるところが多々ある。
しかし伏線という隠喩表現をとる以上、
・その時点におけるストーリーに無理なく溶け込んで意味をもつべき(白河殺生禁断令、竹馬)。
・それが当時点で予測不能な意外性をもって、その後の重大局面で新たな意味を獲得(お涙頂戴竹馬エピ→
木下強奪エピから当然のように導かれる無能傲慢宗盛像に修正を迫った)したり、
意味変容をもたらしたり(誠実な庶民そして父を見殺しにした白河の圧政を想起させることで、
白河に近づく清盛を、股肱の臣へと上り詰めた盛国は決死の諫言を試みた。このパラドックス。。)
しないと、伏線大売り出しの安っぽい用いられ方となってしまう。
こういう伏線は清盛においてもそんなにない。また持ち出してスマンが、100%倍返し来るぞ来るぞー
と予想されてその通りとなった「黙れ小童!」の展開に、予想通りミタニンスゲーの大合唱が始まったのには
ひたすら白けた。
もう一つ
・伏線ばかりが物語の凝集性を高めるのではなく、空間軸ーヨコ軸での展開も同じくらい重要であるのに、
何でもかんでも伏線がーは、こちらの方面には至って無頓着なのが摩訶不思議。
そこで、この方面においても、大河清盛が傑出していたことを強調してきた。 伏線どころか一般視聴者には伏せたままにしていたかのようだったのが清盛 ・最終回の西行の餞のコトバは、初回で舞子が遊びの歌について解説した内容のリフレインであった。
・頼朝助命時の髭切突き刺し(返還)は、初回忠盛が「死にたくなければ強くなれ」と
宋剣を地面に突き刺したシーン(授与)のアナロジーであった。
・「いかがでござりますかそこからの眺めは」は、臨死体験下で「再会」した父白河の
「そちはまだ知らぬ。頂からの眺めを」を受けて、治承クーデターで遂に天下をとった清盛に向けて発せられた、
もう一人の「母」祇園女御=乙前による警句であった。
この辺りとなると、確かに秘境に分け入っていくような「見えなさ」がある。
しかし、それは伏線が回収しないまま放置されたのではまったくなく、我々が「発見」することを
待っているような本物の伏線なのである(気づかなくてもそれで良い)。 実際に清盛関係者が見たのは地獄の底からの眺めであった 回収しないまま→回収されないまま
信西最後のシチュエーションを知っている者にとってはみえみえであっても、
予測可能性を超えて展開される類いの途方もない伏線もある。
それが穴に落ちた信西と出会い、そして穴で死んだ信西と清盛の関係性。
誰でもヨーイのコミカル、俺は誰なんだーの青臭さから、華麗なレトリックを駆使した
信西の悲劇@平治の乱に帰結するとは予想できなかった〜悲痛な叫びを上げての清盛殿助けてくれ。
私は何を望んでここまで来たのだ〜人生最後の最後での迷い、悔い、自我危機、、、 >>607
いや別に
低かったのはリアルタイムの電通視聴率だけだし
当時のキャストやスタッフが抜擢されてるのを見れば業界評が高かったのは明らか 信西良かったけどな。
みんな結構はまり役だったね。
クソオリキャラ連れてくる落合Pの手腕ではなく磯Pの手腕だよねこれ。 清盛の地獄の底がどんな地獄の底だったかわからんかったが現大河のオリキャラ地獄より全然ましだろ。 青盛 俺は誰なんだー
通憲 誰でもよーい、誰でも良いゆえ助けてくれ!
信西 清盛殿助けてくれ!
清盛 俺は平清盛ぞ。者ども続け!平清盛は断じて見捨てはせぬ
信西 己が誰なのか見つけたり。我は信西入道ぞ! グサッ ラストのシリアスとの対比において、清盛ー信西の人間関係の進化、深化の起点となったシーンが
すっとぼけたコミカルなものであったことに、この伏線の最大の妙味はある。
そして
一刻を争う非常事態において清盛は、穴での出会いから始まった信西との長い付き合いが
自身に及ぼした果実の大きさに思いを馳せ、信西救援のため危険を省みず引き返すことを決断した。
「今の俺がいるのは信西殿のおかげ」〜俺が平清盛である以上、信西を見捨てることなどあり得ない。
誰なんだーとアイデンティティに苦しんだ俺は、信西殿に導かれて今はまごうことなき平清盛なのだ!
さらに
信西は人生の最後の最後となって、穴で出会った清盛の如く「私は何者なのか」と自問した。
「清盛殿助けてくれ!」と悲痛な叫びを上げたシリアスな大宰相の姿は悲劇的ですらあった。
揺らぐ彼が今際の際で確信をもって己の人生を一言で総括したコトバ〜それが我は信西入道ぞである
(敵に囲まれて長広舌する暇はもはやない)。
人物相互の関係性の推移を、キーワード、キーセンテンス、アイテム、対比などの論理を駆使して
掘り下げる手法は藤本の真骨頂ともいえる。こうした特性と技法は、
学芸会がー、薄っぺらいーみたいな貧相なボキャを使えば何かを腐したつもりになる、常に
断片しかオツムが回らなず、事象を結びつけて考察することができない、
いつもの薄っぺらなお前ら(>>616、>>617)の理解が及ぶところではない。 薄っぺらじゃなくコルステロール一杯で目詰まりした血管状態だったのが清盛 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています