大河ドラマで最高の織田信長★15 [無断転載禁止]©2ch.net
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【幸治】大河ドラマで最高の織田信長★14【殿堂】 [無断転載禁止](c)2ch.net
http://nhk2.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1476712076/
【注意】
このスレには高橋幸治を最高の信長と考えるあまり、
他の役者、特に反町などの最近の信長役を目の敵にする老人が取り憑いています。
たまに発作を起こしてIDを変えつつ自作自演を始めますがスルーして下さい。
なので不本意ではありますが、歴代信長の一人ではありますが基本的に高橋幸治氏の話題は禁止とします。 >>693
緒形直人の場合は
二世俳優、コネごり押しという
負の要素を最初からまとっているので
マイナスからのスタート
まったく評価に値しない >>685
郷ひろみの家康は緒形より低い
>>692
ステレオタイプの信長か史実通りの信長かの違い、ちなみに緒形直人は干されてる云々ではなく子育て優先で仕事をセーブしてるに過ぎない。 郷ひろみってそんなチビなの?
スターのオーラなのかデカく感じる >>695
郷ひろみは幾ら何でも緒形直人より低いのはありえん。
緒形直人は実身長は170は無い、星野源くらいの体型。
実際に全身が映ってるの見るとかなりのちんちくりん。 七光だけの役者なら、あの兄弟格差は一体何なんだ?
それに出演頻度減ったとは言え出る時はわりと美味しい役廻ってくるし、干されたわけじゃなくて>>695が真相でしょ >>698
日村が郷ひろみのモノマネした時並んだら一緒だったよ。ちなみに日村の身長は172cmとあるが他の人と並んだらせいぜい169から170。 調べたら公称178センチなんだね郷ひろみ
いくらなんでも10センチサバ読まないだろうから173センチぐらいはあるんじゃない? 郷ひろみ信長なら本能寺でアーチーチーアーチーはマスト。 いよいよ明日の朝から!
毎日4:00〜5:45(2話ずつ)
TBSチャンネルで「おんな風林火山」一挙放送!!
http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d0323/
武田信玄…石立鉄男
松姫(信玄五女)…佐藤由紀絵→鈴木保奈美
織田信忠(信長嫡男)…和田求→松村雄基
舞姫(信玄正室)…梶芽衣子
藤野(信玄側室)…金沢碧
武田義信(信玄嫡男)…志垣太郎
義信正室…麻木久仁子
武田勝頼…美木良介
可那姫(勝頼正室・北条氏康娘・上杉景虎妹)…奥田圭子
由良(勝頼側室)…中村晃子
仁科盛信(信玄五男)…伊藤淳史→岡野進一郎
波瑠姫(信玄長女・北条氏政正室)…林寛子
佐保姫(信玄次女・穴山信君正室)…岡田奈々
真理姫(信玄三女・木曽義昌正室)…谷本重美→比企理恵
菊姫(信玄六女・ドラマでは松姫の姉・上杉景勝正室)…岡崎由喜枝→伊藤かずえ
穴山信君(梅雪)…三浦浩一
高坂弾正…村井国夫
跡部勝資…石橋正次
下島政茂…下川辰平
織田信長…隆大介
織田勝長(信長五男)…坂詰貴之
お市の方(信長妹・浅井長政正室→柴田勝家正室)→舟倉由佑子
織田掃部…若林豪
明智光秀…佐藤仁哉
徳川家康…国広富之
北条氏康…梅宮辰夫
北条氏政…石田純一
上杉謙信…山下真司
上杉景勝…森一馬
上杉景虎…和泉史郎
顕如…平野元
顕忍(僧侶・菊姫の婚約者)…新田純一
神津左馬介(顕忍の部下)…四方堂亘 >>701
検索するとちょうど中村雅俊と新御三家が並んで歩いてる写真があったけど(ヤフオクのセブンティーン1976年の分)
中村雅俊(公称182cm目撃者の証言によると最低でも180cmはあるとの事)のみ頭一つ高いので(因みに郷178cm西城181cm野口174cm)
当時は5〜10cm程度の詐称は当たり前だったんだろうね。 郷ひろみ178はないわ
178の木梨と並んだ時10センチ近く差があった
実寸168〜170だろ 郷ひろみ キムタク 長渕 田原 柳葉 真田
さんまのまんまに出たとき素足で さんまと皆同じだった
170くらいだろうな >>709
この中だと真田が一番小さく感じる
バランスも重要だからな >>670
その肖像画というのが奈良にあるアレならば
茶々ー淀殿だという確証がとても薄いらしく今では 「伝淀殿画像」だものね
また「絵に描かれた着物の部分」から身長を推測って、何を基準に?ってハナシかと
衣装史の専門外で小袖もかいどりも区別がつかないような歴史研究者が推測して
お市も茶々も170p以上の モデル並み にされてしまう。笑っちゃうけど
>>679
秀頼190p以上を信じてる人らがこの板にまだ根強くいるけど
この現代でも長身で目立つような高さなのに、
あの時代に190p以上なんてもう病的というか異形すぎる
なのに、の特殊さを記述している一次史料が何も無いってことで眉唾確実
秀吉の多指症なんかより一目瞭然の190p以上が何の記録にも残ってないって何故?だよ
ただ栄養状態は良すぎるくらいだったろうから体格良し説までは否定しない それより秀頼が誰の子か知りたい
あの時代の武将の遺体がそのまま残っててDNA鑑定できればね
肝心の秀頼の骨や遺体すらないからな >>711
当時190もあったらもののけ扱いされて退治されそう 今でも平均より30以上でかい200オーバーいるし
戦国当時もホルモンバランス崩れてバカでかいのがいてもおかしくない
秀頼は180ぐらいはありそう
さすがに190はないだろうけど 信長の甲高い声は肖像画の骨格等から明石家さんまに近いって
昔本人が言ってたぞ まー秀頼にしろ信長にしろ骨すらないからすべてが想像の世界だよね
それをあたかも見てきたみたいに全否定するのは滑稽
歴史は各々が想像を膨らまして楽しめばいい
具体的な人物像に正解はないんだから
俺は秀頼170センチぐらいだと想像し勃起してる 秀頼に関しては小さい秀吉の子供じゃないってことにしたくて後世の人間が面白おかしくするためにでかかったってことにした気もするけどね 父親178センチ母親164センチで平均的なのにオレは193センチあるわ
このぐらいだと街歩いてもあまり見られないけど200センチ以上ある人は色物見るみたいに振り向いて見られるんだろうな
Mカップの超爆乳が歩いてたら皆んなが振り向くみたいにさ >>711
だから秀頼は病的なもので高身長だった可能性が高い。 >>721
マジで大変だと思うよ。うちの会社にLカップのデブいるけどなにかと不便そう。
それより必ず視線が胸にいくのが嫌なんじゃない? 身長は、法則に当て嵌めるのはなかなか難しい
親が売れてて金持ちで、栄養状態いいはずだったなべやかんやこぶ平が身長低いし、
遺伝でいうなら阿部寛や高田延彦は両親とも低かったから
法則みたいなの言っても始まらないな >>723
いやほとんど遺伝で決まっている。親の身長のプライスマイナス10cmがほとんど。 斎藤義龍は織田信長に「六尺五寸殿(嘲笑)」と馬鹿にされてたとか、全くいないわけでもないと思う。
前田利家も六尺あったから世になきお太りと云われた秀頼が白鵬並みの体型でも不思議ではないかもね。 >>726
逆だよ。栄養状態がよければほぼ遺伝で決まってしまう。
日本人の身長分布を知れば中央の集まりが高いことから異民族との混血の歴史が少ない日本人は遺伝でほぼ決まっていることがわかる。 戦国時代は江戸時代より肉食がさかんだから武家ならいまのような高身長がいても不思議ではない。ただそんなに体が大きいと近視の確率も高くなるから武将としては不利だったろう。 >>727-728
やっばりこのふたつ読んだらバカってわかるね 伊達政宗みたいに骨が残ってればほぼ正確な身長がわかるのにね >>724
>プラスマイナス10pがほとんど。
って、幅広すぎだろw 逆に石川数正は115センチしかなかったみたいだしな
この信ぴょう性もどうなんだろ
徳川を捨て豊臣についた数正を江戸時代奇形としたくて文献残した気がする >>732
父親175
母親160
だと子供が成長したときの予想身長は174
これに生活習慣、栄養バランスなどで影響される誤差は165.3 cm 〜 182.7 cm
一般的に誤差は10センチ前後と言われてる >>734
大概の日本人男性はその範囲内に入ると思うけど
それに栄養状態がよければ、
とかすでに別の要因をしれっと足してるし
君の意見は苦しいな >>729
人をバカ呼ばわりする前に日本語ちゃんとマスターしような >>733
今年の石川数正との身長差が72cmか、 いつかは来るとは思ってたけど、
やっぱり悲しすぎるね。
坊主頭にも白いものが多いように見えた。
直虎の信長役、きっとやり遂げて下さい。
奥様のご冥福を…。 秀頼については1980年に京橋で見つかった貴人の頭蓋骨があるらしいし(秀頼の愛馬とされている当時としては巨大な全高170cmの馬の骨も出土したらしい)
秀頼の首なし遺体とされるもの(秀吉が与えた脇差と一緒に焼け跡から発見されたらしい)も巨大だったらしいからとりあえずデカかったのは確定だと思う。
因みにその貴人の首は秀頼の首として京都清涼寺に埋葬されたとの事。 >>741
レスを辿って行くと、一般論として「身長を決定づけるのはほとんどか遺伝的要因」という説を述べておられるのに対するレスだったのに、急に
>秀頼の話ということをお忘れか?
と例外的な一件だけの話に限定して戻されてもね。 まだ1回分だけながら海老蔵の信長見て喜んだのは麻央とその一家くらいか
まあ少数でも見て良かったと思う人がいるならいいじゃないか
個人的に見た目なら魔王ぽくて信長らしいていいと思う
少なくとも武田信玄の威勢だけの石橋や緒方の七光りバカ息子や天地人の吉川や江のロリ長や去年の空気だったじいさんよりはよっぽど役にハマってる 秀頼は当時としてはデカイ170ぐらいだろ
戦国時代にもぶっ壊れ遺伝子で190ぐらいのはいただろうけどさすがに秀頼は190ないと思うわ
190あったら家康との対面時一番インパクトある背についての >>744
そうか?ちょっとガッカリしたわ
大事な同盟者の家康に威圧的な態度取ったり
またお馴染みのベタな南蛮スタイルだったりして、演出悪すぎだよ
歌舞伎口調もシラケたし
麻央さんのことはお気の毒だけど、それとは話別なんで サダヲ家康も家来に黒人召しかかえて同席させれば信長と対等以上の関係になれたろうに。 「〜よのぅ、三河のポンポコ狸よ」
これ見たときは、もうガクブルww >>745
会見に背は関係ないと思う、家康にとっては秀頼にどれだけ権限があるかどうかだけだろうし。
それから仮に170cmならわざわざアラブ、サラブレッド級の巨大馬を用意する必要がないと思う。
そういえば、へうげもので結構前に二条会見の回があったけど物凄いインパクトだった(笑)
>>746
まあ威圧的な態度は瀬名の件の伏線だろうけどベタだと思った。衣装もマントに着られてる感満載だった、せめて陣羽織ならまだマシだったろうに。 >>749
秀頼の体格がいいのは家康にとっては脅威だったと思うよ。 >>750
老い先短いジジイが健康でデカイ若者を見たら脅威だわな
内面より外見に脅威を感じそう >>747
そうだな、今回の大河では信長が本能寺で最期を迎えるのに合わせたかのように
主役さんも亡くなるんだから、
本能寺のシーンガッツリやるためにも弥助は欲しいところだな
海老は嫌かも知れんがダンテさんぐらいならいいかも
カンフーできるし >>753
35〜40cm差はヤバイ、昔190後半から2mありそうな奴(恐らくバレーボール部)を間近で目撃したが腰がゴツい骨盤がヤバイ位ゴツいから半端なくデカく感じる。
後、実際相撲取りを5m先で目撃したけど(現役時代の貴乃花)本当にデカい丸太が歩いてる感じでオーラ(雰囲気)半端無かった(笑)因みにおいらの身長は174cmです。
196cm161kgという事は上記の2人をミックスした感じだから今でも相当なゴツいよデカいよ怖いよだろうね。 寿司屋で大関時代の武蔵丸を見たけど半端なくデカかったわ
あのでかさは今でも鮮明に覚えてる ジャバ・ザ・ハットを見たようなもんかな
でも家康は怖れるというより、
「なんだこのフリークスは、なんかの病気にかかってるんじゃないか」
とか、統治能力に疑問持ったんじゃね >>758
前田利家とか千利休が180cmあるらしいし、ラマンの井伊直政の推定がリアル現役時代の貴乃花だからそうでもなさそう(笑)
でもデカい人は基本的に戦に不利だよね藤堂高虎とか井伊直政は身体中古傷だらけだったらしいし。 しかし戦さ場でラスボスとして奥で座ってたら迫力はあるよな >>748
ポンポコだぬきなんて言われたら一気に緊張感無くなるわw
とはいえ、今年の大河ならやりかねん 前田利家や利休まで驚異の高身長って・・・
何でみんなこうまで身長を伸ばしたがるのか、大きな疑問w ジャニーズなんか10センチサバ読むしな
キムタクなんか実際は162センチらしいじゃん >>759
利休が180pだったら
自分で設計した茶室のにじり口を通過できない恐れがある >>765
にじり口は66cm位で身長180cmなら肩幅40から55cmなので入らない事は無い。 >>763
利休のは残ってる甲冑から計測して180あったとか言われてるけど、
大体武将でもないから実用品じゃなくてただの飾り鎧なんで
サイズがでかいだけなのかもとか >>767
会合衆(自治的な集まり)なので鎧は普通に着用してたと思う、それに小田原征伐に参加してる(山上宗二が利休を介して秀吉と対面) >>767
うん、ちゃんと表千家の人に聞いたことがあるけど
あれは実際に着用したものとは認識していない。とのこと
(個人談)
当時は170pあれば「大男」だったんじゃないの
また尺にも大きな違いがあり実際に身長図っていたかも謎で
ぱっと見で大柄、なんとなく大きければ
六尺なくても、 「六尺豊かなー大男、美丈夫、、偉丈夫」 なんて
おおざっぱに美称したものなんだということ
※六尺=180p強ほど >>769
7世紀から18世紀にかけて日本の一尺の誤差は6mmと中国の尺に比べると誤差はすくない、杓子定規と言う言葉もあるけど、あれも定規が正確という前提があっての4文字熟語。 >>770
でたらめ言ってはいけない。
いつの時代も定規は常に正確だよ。なにしろそれ以上に正確なものが世の中にないのだから。
度量衡が統一されていないことと混同してはだめ。 >>769
なんとなくわかる
ちょっと見で背が高いと実寸にかかわらず
「6尺豊かな偉丈夫」という風にくくっちゃうんだよね
なので「〇〇は180p」というガセネタが2ちゃんで多く流通している
180pなんてあったらそこら中の天井や鴨居に頭ぶつけまくりだよな もはや海老蔵一人の信長じゃないからな
麻央の魂を背をった信長は歴代最高になるのは間違いない
オープニングのキャスティングも市川海老蔵&麻央とするべき あの信長なら光秀に謀反起こされる前に弥助に半殺しにされそうだな >>773
天井とか鴨居が六尺なら後はわかるよね。 骨が出ないうちは身長の話いくらやっても結論は出ないな >>775
弥助に灰皿で酒飲ませようとしてブチ切れされる? うつ危機か…海老蔵、ブログで途方に暮れる心境吐露 精神科医が危惧する「兆候」
http://www.zakzak.co.jp/ent/news/170629/ent1706291518-n1.html
2017.6.29
長い闘病の末、22日に乳がんで妻の小林麻央さん(享年34)を亡くした歌舞伎俳優、市川海老蔵(39)。
この1週間、涙ながらに会見し、舞台を勤め上げ、子供たちを支え、気丈に振る舞ってきたが、ここに来て変化が現れ始めている。
専門家は、この1週間が一番気をつけなければならないと指摘する。
(略)
「闘病生活の長さにかかわらず、大切な人を失うと喪失感が生まれる。
そして、それが『なぜ自分がこんな思いをしなければならないのか』という怒りに変わる。
アルコールなどに逃げるケースもあるが、一番いいのは泣くこと。海老蔵さんも会見で涙を流したことはよかった」
ただし、危険なのはこれからだという。
「生活上、うまくいかないことや、これまでと違うことが出てくるようになり、それがうつへとつながっていく」
その期間は「人それぞれだが、1週間から10日で出てくる」。
症状は「頭の回転が悪くなり、集中できなかったり、記憶力が落ちたりする」とされる。
海老蔵も次の舞台の台本がなかなか頭に入らないとブログでつづっているが、日向野氏は「兆候かもしれない」と危惧する。
(以下、略) 標準治療を遅らせた? 海老蔵“スピリチュアル信仰”の是非
日刊ゲンダイ 2017年7月1日
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/208528
海老蔵は風水や占いにも傾倒。
2カ月前には東銀座のパワーストーンショップを訪れていたことも報じられており、普段から信心深いことで知られていた。
芸能リポーターの川内天子さんはこういう。
「麻央さんは乳房を失うこと、抗がん剤治療をしたらしばらくは子供を産めなくなることに躇躊されたのではないでしょうか。
有名人だけにたくさんの情報が入り、高額な民間療法もかなえられるお金もあるからこそ、選択肢が多かったのかもしれません」 鳥取環境大学紀要 第8号(2010.6)
仏を超えた信長 −安土城ハ見寺本堂の復元− 岡垣頼和・浅川滋男
https://www.kankyo-u.ac.jp/f/845/1089.pdf
ルイス・フロイスの『日本史』第3巻55章に、総見寺に関する記述がある。
神々の社には、通常、日本では神体と称する石がある。
それは神像の心と実体を意味するが、安土にはそれがなく、信長は、予自らが神体である、と言っていた。
しかし矛盾がないように、すなわち彼への礼拝が他の偶像へのそれに劣ることがないように、
ある人物が、それにふさわしい盆山と称せられる一個の石を持参した際、彼は寺院の一番高いところ、
すべての仏の上に、一種の安置所、ないし窓のない仏龕を作り、そこにその石を収納するように命じた。
信長は「盆山」というご神体を自らの化身として、本堂ご本尊の上に「仏龕」を造って祀ったとフロイスは書き残しているのである。
仏像の上層に自らの化身を祀るという行為は、比叡山や本願寺を壊滅的状況に追い込み、
中世宗教社会を解体した信長の思想を露骨にあらわすものと言える。
さらに、境内の立地に目を向けると、最も背の高い三重塔を本堂よりも低い隣接地に配し、
「盆山」を安置する本堂の2階から見下ろせるようレイアウトしていた。
以上のような伽藍内部の空間設計を通して、信長は己が「仏を超えた存在」であることを誇示しようしたのであろう。
さて、フロイスのいう「仏龕」とは何なのであろうか。「龕」とは、洞穴の壁面や厚い石壁をくりぬいた棚状の施設をさす。
そこに仏像を鎮座させれば、その棚は「仏龕」となるわけで、東アジア圏においては石窟寺院内の「仏龕」がよく知られている。
総見寺本堂に、石窟寺院のような「仏龕」があったはずはなく、本尊の真上に造られた小型の2階部分(楼閣)を「仏龕」に喩えたので
あろう。それはおそらく「厨子」に似た施設であり、常時扉を開いており、境内の地面から直接盆山を遙拝できたのではないだろうか。
『信長公記』巻十五に以下の一文がある。
正月朔日、隣国の大名・小名御連枝の御衆、各在安土候て、御出仕あり。百々の橋より惣見寺へ御上りなされ(後略)
このように、隣国の大名・小名はみな総見寺を経由し天守に出仕したとされるが、それは「盆山」の遙拝を義務づけたものと解釈できる。
また、フロイスの『日本史』第3巻55章には、信長が「庶民」に対しても総見寺に関する御触書を出し、信長の誕生日を「聖日」と定め、
総見寺を参詣するよう指示したことが記してある。町民が安土城天守閣で信長にお目通りすることはかなわないが、
その代わりに総見寺で信長の化身たる盆山を礼拝せよ、という意図であろう。
こうしてみると、総見寺そのものが織田信長という権力者の代替物として機能していたことがわかる。 >>784
キリスト教から見たらそう解釈するしかなかったとは思わないのか? >>785
安土に関するフロイスの報告は具体的な情報が多いので信頼できる。
総見寺での行事の詳細についてあえて当時の日本人が書き残さなかった理由をむしろ考えるべき。 安土に関するフロイスの報告を嘘や誇張として否定するには、日本人の残した史料との突合せによる矛盾の指摘が必要だが、
反証になる史料や考古学的な矛盾もないのでフロイスの報告は正しいと言わざるを得ない。 >>786
現在、残ってないからといって当時、記録してなかったとはかぎらない。
他の具体的な記録がないことから、それほど重要視されていない。 当時の人が重要視していないことと、歴史的に重要であるかどうかは全く別なこと。
また親織田政権の人々で信長存命中に批判的に信長を語った史料がそもそも少ない。 >>789
信長を知ってる人が少ないんだから仕方ない。 「あたりまえのこと」
は、そもそも記録されませんからな
(井沢元彦:中日ドラゴンズの理論) http://intervalues7.com/h/hasimotorina41.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:ea107c9c1581680b0310fcc05371d356) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています