>>519
島津斉彬の側室について少し
鹿児島県が所有する「旧記雑録」は徳川家定の御台所となった篤姫について
島津忠剛の娘で母は島津久丙女であるが、島津斉彬の養女となった際に(斉彬側室の)伊集院兼珍女を実母とした
しかし幕命により徳川氏(斉彬正室の一橋恒姫)を生母とすることになった、とあります
篤姫が斉彬の養女となった際に伊集院須磨(薩摩藩士・伊集院兼珍の養女)が篤姫の母となったのは
当時須磨が斉彬のお国御前(国許の側室筆頭。正室は江戸に常駐のため国許ではお国御前が奥を取り仕切った)
だったからだと思います
しかし大河の「翔ぶが如く」や「西郷どん」では喜久よりも上の立場の側室は見当たらず
喜久をお国御前として描いているようです
しかし実際のお国御前は伊集院須磨でしたから喜久は架空人物でしょう
大河で出てきた次男の母は史実では別の側室(旗本横瀬克己女)ですがこの側室はお国御前ではありません
(薩摩藩の江戸屋敷にいた側室だと思います)
須磨は斉彬との間に二男三女を儲け二男は早世しましたが娘3人は島津久光の子に嫁いでいます
産んだ子がすべて夭折したとする喜久の経歴とも異なっています
(大河「翔ぶが如く」では喜久に子がいる設定はなかったと思います)