>>837
家定の前の家慶が水戸から一橋に養子に行った利発な七郎麿を事の他寵愛していて
将軍として異例な程に一橋家にお成りをして親しく接したり
朝廷に鶴を献上する鶴御成供奉に同行しようとして阿部正弘に止められたと言う話もある
だから、黒船来訪直後に暑気当たりか何かで急死した家慶が慶喜の擁立を望んでいた節があり、
大奥でも評判の美男である慶喜の事を家定が個人的に嫌っていたと言う話もあるけど、
この父子関係が影響したと考えるのも普通

その家慶政権の早くから寺社奉行、老中として仕えていたのが阿部正弘で、
水野忠邦完全失脚後は老中首座、家定に対しては一応「辞意を伝えたものの慰留された」
と言う形式で留任してる。

鶴御成供奉の件も、今朝廷へのお披露目みたいな形で強行突破するのは
譜代・大奥を敵に回すからやめとけ、的な意味で阿部正弘が制止したとも言われ、
おおよそ老中首座である阿部正弘を徳川家側のパイプ役に
水戸斉昭、島津斉彬、松平慶永が阿部正弘の個人的なサロンとして一橋擁立に動いていた