★★徳川慶喜役の松田翔太(ヒー様ヒー様)謎の男
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★慶喜役の松田翔太(ヒー様ヒー様)
初登場で町人姿の江戸のヒー様として登場した徳川慶喜
意外と、早く徳川慶喜が登場したので、江戸城無血開城まで楽しめそうです。
徳川慶喜の、いろんな謎の行動を、どうやって説明するんだろ!! 井伊直弼よりも徳川慶喜のほうが先に登場したのは意外でした。 今回のキャストで一番楽しみなのが松田の慶喜
最初は浮世離れした感じから入るんだろうけど戊辰戦争あたりから冷徹な感じに
なっていくキレッキレの慶喜が見たい 初登場から逃げ足が速かったな!!初回で正体ばれたけど
徳川慶喜役の松田翔太
好色で、頭の回転が速くて、人の欠点もズバズバ本音で言う徳川慶喜が似合っていた 初回から慶喜の他人を小ばかにしたような名言が多かったな!!
「暇つぶしありがとな!!」
「こいつは、一生、貧乏で終わるぞ!!!」 >>3
いきなりどっぷり浮世に浸かりまくっている登場の仕方だったな 暴れん坊将軍のモデルは、徳川吉宗と徳川慶喜の両方だった
火消しの頭のところに行ったり、江戸の町を歩いていたのは、将軍になる前の慶喜だった 直木賞作家の門井慶喜さんて、やはり、両親が徳川慶喜を意識していたように思うんだが
今の日本で、慶喜って名前の人は少数だと思う。 >>10
水曜日のダウンタウンで妾が5人居たってバラされてたなw
あの慶喜を生で見た婆さんまだお元気かな (´・∀・`)ヘー
それで三田村もコロッケと入れ替わる殿様ドラマを 慶喜の妾は、身分が低いものは、女中扱いだったらしい・・・・・・・・・・・・
実の子供24人にも、呼び捨てにされていた。
壬生義士伝と同じ様な感じ
某サイトに、このように書かれていた
慶喜も家斉(55人)、家慶(29人)に次いで子宝に恵まれた。生んだのは中根幸(こう)と新村信(のぶ)の二人の側室、流産も含めて12人ずつ生んだ。
この二人非常に仲が良く、慶喜へ世話、つまり、お湯殿当番と夜のお伽も一晩おきに交代で勤めた。みんなおなじ屋根の下で暮らした。
子供たちも、自分がどちらのお腹なのか全く意識したことはなかったという。
はじめの頃は夭折が多かった。理由は過保護の一語に尽きる。
そこで、ある時期から町の健康な庶民の家庭に預けるようになった。里子に出したのである。そのせいか、子供達は生母を幸とか信とか呼び捨てにし、生みの親に対するような言葉をかけることはなかった。
幸と信は側女中とも呼ばれていたから、使用人扱いだった。 >>12
実際そうらしい
朝日新聞の記事で門井氏が二条城を訪ねる企画で門井氏の父親が
慶喜びいきだったとか
でも今回の慶喜は品がなくて嫌い
漫画風光るの浮之助からパクってる可能性があるがまだあっちの方が品があるくらい >>1
こんなスレが出来てたのか乙
今後も書き込み盛況になりそうだな 6年前の後白河と同じ演技だな。何考えてるのか分からない気味の悪さが出てる >>16
父親の影響だったんだね。
それにしても、門井さんは、家康で賞を逃して、宮沢賢治で直木賞を受賞とは面白いね
2016年 - 『家康、江戸を建てる』で第155回直木三十五賞候補。
2016年 - 咲くやこの花賞(文芸その他部門)受賞。
2018年 - 『銀河鉄道の父』で第158回直木三十五賞受賞[7]。 後白河は良かったけどな
慶喜は自分は三田村邦彦のイメージだわ 後白河では賽を転がすかの如く政事を操ったが
慶喜の場合、後年集中砲火をあびる時の演技がどう出るか
これは松田の挑戦の物語でもあるのだ 実際、明治維新で一番の勝ち組は徳川慶喜だよな 引退した後は
都道府県の予算並みの小遣いをもらって好きな趣味に生きて当時としては
超高齢の70過ぎまで生きれたんだからさ 無事に成人した人は70過ぎまで生きる人多かったから
超高齢でもないだろ
まあまあ長生きだよ
真田幸村のお兄さんなんてあの時代に90まで生きた >>15
有名な 「おんな聞き書き 徳川慶喜」を持っているので
その辺の、「幸や信は、自分が産んだ子達から呼び捨てにされた」ことは知ってる
彼女らは家執の日記でも生前は呼び捨てされてるからね
側室や側妾が生んだ子は正室腹になおすことが普通にあった時代だし
側室は奥御殿内の老女や総取締の支配下にあるような家も多かったのだから、
まあ「生母を呼び捨て」はそんなに非道なことでは無い
慶喜は嫌いな人物だけどな >>25
爵位を賜るまでは徳川一族の中でも下にみられてたしそういう扱いも受けてたので
プライドの超高かった慶喜が自分を「勝ち組」と思ってたかは怪しいが
慶喜の娘たちが華族女学校進学のため東京の千駄ヶ谷の宗家に預けられていたのだが
虐待とかそういうのでは無いがはっきりと格式差別は受けていた この時代になってもいまだに昭和のカビの生えまくった慶喜イメージにとらわれてるからでしょ
逃げた慶喜は卑怯者!
新選組や会津こそ勇敢な武士の鑑!っていう いや今でも変わらないんじゃないのw 慶喜さんの良くないイメージは
美賀子夫人が危篤だって知らせをうけても平気で遊びに出かけるご仁だ
ってか15があげてるサイトがなんだか知らんけど
側室の子が正室の子になおることとか記してないようだし
側室が奥向きどういう支配下にあるか説明もしてないじゃん
家執の記録もひいてないし、程度ひくいのな >>32
>美賀子夫人が危篤だって知らせをうけても平気で遊びに出かけるご仁だ
これが嫌いな理由なのか 品川宿の時みたいに
大阪城からこっそり逃げるヒー様 水戸徳川家は「いかなる理由があろうと朝廷帝に逆らってはならない」「徳川が朝廷に弓引けばいくら血縁たりとも徳川を討て」みたいな徹底した掟と尊皇思想があるから、敵が錦の御旗掲げた時点で徳川慶喜は水戸徳川の掟に従い撤退しただけでは? 水戸藩は学者肌のひとが多い藩のように思うが 勉強しすぎて過激な思想の人も育ってしまったようにように思う ヒー様「西郷隆盛なくして無血開城は有り得なかった」
駄作確定 >>29
徳川家達に「あちらは家をつぶした人」
「私は家を興した人」とまで言われてるから
多かれ少なかれ一門も似た認識なのだろう。 ゴッシーとか言われているのか気持ち悪いな
まだ「様」がついているだけヒー様の方がマシだな 「お前の言葉には、命がこもっていない!」
この言葉を慶喜がいうとは思わなかった >>45
華族女学校に進学のために上京した慶喜の娘たちは
千駄ヶ谷の徳川家屋敷に住んだわけだが、
慶喜が華族に列せられるまでは一族集合のさいに座布団もでなかったほどなので
娘たちは気の毒なようだが軽薄才子を父親にもったので仕方なし >>51
>慶喜が華族に列せられるまでは一族集合のさいに座布団もでなかった
家達や宗家の連中の性格の悪さが滲み出ているな 好き嫌いが激しい慶喜
芋と牛男のあだ名をつけた後は、別のあだ名も考えるのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています