慶喜の妾は、身分が低いものは、女中扱いだったらしい・・・・・・・・・・・・
実の子供24人にも、呼び捨てにされていた。
壬生義士伝と同じ様な感じ

某サイトに、このように書かれていた
慶喜も家斉(55人)、家慶(29人)に次いで子宝に恵まれた。生んだのは中根幸(こう)と新村信(のぶ)の二人の側室、流産も含めて12人ずつ生んだ。
この二人非常に仲が良く、慶喜へ世話、つまり、お湯殿当番と夜のお伽も一晩おきに交代で勤めた。みんなおなじ屋根の下で暮らした。
子供たちも、自分がどちらのお腹なのか全く意識したことはなかったという。
はじめの頃は夭折が多かった。理由は過保護の一語に尽きる。
そこで、ある時期から町の健康な庶民の家庭に預けるようになった。里子に出したのである。そのせいか、子供達は生母を幸とか信とか呼び捨てにし、生みの親に対するような言葉をかけることはなかった。
幸と信は側女中とも呼ばれていたから、使用人扱いだった。