ひい様こと一橋慶喜公は実務能力に長け、尚書令としての公務を朝夕でさばきながら、
夜は遊郭で騒いで宴会、博奕を楽しんだ。理解力に優れ、一度見たものは人の数倍の速さで理解し、決して忘れる事はなかったという。
兄の慶篤が真似たところ10日で仕事が滞り、兄弟ながらこれ程の差があるのかと嘆いたという。
また薩長軍が攻めてきた時、出立前の喧騒中でひい様は知人との碁の勝負に応じて沈着を示したという
攘夷論については神君家康公ですら米英征伐は出来なかったのに我らではとても無理だ、ここは富国強兵に努め軍事の天才が現れるまで待とうという先見の明を持っていたそうな7