>>301
斉彬公が軍備増強につとめていた根本的理由は攘夷が目的だからさ。
一橋派を形成して一橋慶喜をかついで将軍に推挙しようとしたのも攘夷政策を推進するため。
ただし、攘夷といっても、この当時なら大攘夷と小攘夷に大別できるが。
そういう目的がなければ、莫大な出費をともなう集成館事業なんか誰に対しても絶対に正当化できない。
そして本当に薩摩が異国と全面対決したのは、斉彬公没後5年後に発生した薩英戦争(1863年)でした。