さらに言えば、「主命に背く」ことは武士として最も大罪だったのである。
儒教的価値観の中、上意をまっとうすることこそ武士の最高の栄誉。
たとえそれが無茶苦茶な命令であったとしても、楠木正成のごとく
黙って死地に赴き潔く玉と砕け花と散ることこそが武士の最高の栄誉とされていた。

そんな時代の中、乱心者が上意に背く分にはまだしも、
西郷ほどの有名人が主命に背いたとあらば、幕府や他藩からも
「久光ってよほどのバカ殿なんだな」と思われかねない。
武士が最も気にする面子体面世間体丸つぶれなのである。

西郷の悲劇は、激動の時代ドッグイヤーの世の中にあって、
奄美流罪前と後では全く違っていたことを知らなかったことにある。
まあ橋本左内や藤田東胡に比べれば久光は田舎者に見えただろうけど。

それを寛大にも罪一等を減じ流罪にした久光。
案外、ジゴロといわれて発奮したのかも知れない。

明治維新後は、久光も西郷も鹿児島に引き込もっていたのを、
大久保どんがあれこれ勧誘にきたり、
明治天皇御自ら久光に会いに来たりした史実を描いて欲しかった。

なあ、いっそ私に脚本書かせてくれない?