>>825
会津松平、その公用方に就いては比較的シンプルだけどな
大政奉還時点で会津松平は無茶苦茶悪評買ってる訳
八一八から池田屋、禁門、会津としては
幕府と帝の両方の意を受けて公務でやってた筈なんだけど
長州のプロパガンダ宣伝で長州と会津の私戦的な世論を作られて、
尾張藩も本心はとにかくそれに近い政治的認識をしてた

もう一度言うけど、ここまでは会津としても公務としてやっただけで、
長州征討に関しては松平容保も近藤勇も実は消極派、
会津はもうキャパオーバーで動けない、それ以外は半ば腐った張り子の虎だから
長州が折れるなら適当な所で手を打ってくれ、と言ってたけど、
まず帝、幕府、江戸城老中がそれを許さなかったのが実際

その後が怒涛の梯子外しで、会津松平を個人的に信任して強硬な反長州だった孝明帝が崩御し
京都で慶喜から政治的排斥を受けた薩摩が小松主導で長州と結び
その慶喜は大政奉還し、で、このまま長州が復権したら会津は一人で怨み買って洒落にならない状態

松平容保は、距離があれば政治的に対処出来ても直接接する以上は事を聞かざるを得ない立場で
それで公務を遂行していたら梯子外されて、家臣一同を含めた実利に直結する
会津松平の武家としての忠義・奉公に対する御恩の名誉、面子を完全に潰される恐れがあったから
慶喜自身や松平春嶽が固辞を繰り返した松平容保、黒谷会津を引き留めて使い倒した弱味もあるし
現実的に会津は一大名家としてはいそうですかと言って終われる状況じゃなくなってた