【第三十三回】太平記 part.33『千寿王と不知哉丸』
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第三十三回「千寿王と不知哉丸」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki33.html
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【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
http://itest.5ch.net/nhk2/test/read.cgi/nhkdrama/1507357471 ここはドラマのことを語るスレじゃなくて、太平記に関する歴史を語るスレなのに勘違いしているバカが多すぎ >>374
いつから歴史メインになったんだよwドラマメインが普通だろうが 真夏竜、最近ガンを患っていたんだな。
太平記には出ていないが、細川ダン隊長つながりで。 太平記以外の大河ドラマで足利棟梁が出ているドラマって少ないよな
戦国の足利将軍家でもチョイ役だったり
尊氏以前の足利宗家なんて全く観た事もない
のが残念 >>380
「北条時宗」での序・中盤の敵、足利泰氏を内管領長崎高資こと西岡徳馬が熱演。
出家、京都大番役で返り咲き、卒中、鱗を喰らう龍云々…。 >>381
息子の頼氏は、江原扮する高師氏にいつもたしなめられてたな。
尊氏の曾祖父さんにあたるのかな。 「北条時宗」か「花の乱」が浮かぶだけだな
戦国だと義輝か義昭がチョイ役ででるだけ
「毛利元就」だと義材が序盤にチョイ役って所だしな >>383
田口トモロヲ
花の乱だと大沢たかおこっちは義材表記だけど >>382
師氏は太平記第1回にも出ているんだよな
時宗の時点でけっこう爺さんだったのに、アイツ一体いくつだよww >>385
「愚かな!僅か十数人の残党のために、八幡太郎義家公以来の源氏の嫡流たる当家を揺るがすおつもりか!?」
「ならば師氏、我等は何時になったら北条と戦える?戦うには味方がいる。その味方となるべき源氏の一党を見殺しにして、我等は何時になったら北条を倒せる!?」 >>382
だな
頼氏の子供家時は側室上杉が母
清子が母の尊氏にも接点があり
頼氏も謎が多い 足利家は得宗から嫁を貰ってたのに、途中から北条の傍流とか上杉とかになっちゃうところが
後の反乱の伏線みたいに見えちゃうな。
「院というたか犬というたか」で有名な土岐頼遠の土岐氏なんかも実は得宗から嫁を貰ってたりするのね
もちろん頼遠は違うけど 正室 側室
源義国 藤原敦基娘 源有房娘
足利義康 藤原季範養女 ?
足利義兼 北条時子 ?
足利義氏 北条泰時娘 ?
足利泰氏 北条時氏娘 北条朝時娘
足利頼氏 北条時盛娘 上杉重房娘
足利家時 北条時茂娘 新田政氏娘
足利貞氏 北条顕時娘 上杉清子
足利尊氏 赤橋登子 加古基氏娘
足利義詮 渋川幸子 紀良子 >>392
こう見ると時氏の娘を貰った泰氏のあとは、得宗から嫁を貰えずに足利の立場が軽くなっていく感じがするやね >>396
家時の正室は極楽寺流だから得宗じゃないし
貞氏の正室は金沢流
得宗家の娘を正室に迎えてたのは泰氏くらいまで
得宗専制体制になった頃からは北条家支流の娘を正室に迎えてる
赤橋登子ってするならその前も金沢氏や極楽寺氏ってしないとダメでしょ 足利の地位低下もあるだろうけど
年齢の釣り合う得宗の娘がいないこともあるんじゃないかなあ >>398
経時→23
時頼→37
時宗→34
貞時→40
早死にだらけ 鎌倉時代後期の上級武家当主に限った場合、平均寿命は何歳くらいになるのかな? 赤橋登子って、得宗の養女になって嫁したって訳じゃないのね。 養女にして嫁がせるって戦国時代に流行ってなかったか?秀吉とか家康とか。公家ではちょこちょこ見られるが >>380
「草燃える」に足利義氏が登場していたらしい。 >>396
ただ赤橋流は、北条庶流のなかで唯一将軍から偏諱を貰っている特別な家系ではある。 自害した足利家時の諱、家は後見役の斯波家氏から、時は北条からであろう。この諱だけでも家時の苦悶が察せられる。 >>407
足利家時の“家”は単純に、源(八幡太郎)義“家”を意識しただけかと思ってた 家時は、尊氏同様、早世した兄とかがいる可能性もあるかもな。 >>408
もし名越流の初代朝時が、得宗家と関係が良ければ、庶流筆頭は名越流になっていた
可能性はあるかもしれない。
朝時の「朝」は、頼朝からの偏諱だし。 >>411
もともと朝時が惣領予定だったろ。何かの事件で泰時に得宗が回ってきた。その関係で斯波が生まれた>>393 とりあえずWikipediaで得宗に近い筋の娘がどんだけいるのかと見てみたが
ほとんどいないじゃん
こりゃ足利に嫁に出す余裕なんかないわ >>395
だな
けど義兼の時から頼朝や
その後の得宗家に睨まれて滅ぼされるのを
恐れて、敢えて突然出家したりしたり
自害したり不明死が多いが多いよな >>413
しかし名前に関しては泰時の初名頼時の「頼」も頼朝からの偏諱だな。
まあしかし朝時と同母の重時が泰時と親密で、重時の極楽寺流から
赤橋・常盤・普恩寺・塩田など多数の有力庶家を輩出しているのと比べると、
仮に嫡流からは外されたとしても、朝時はもう少し上手く出来なかったのか?とは思うよ。 >>417
鎌倉後半期の足利宗家の当主で、一番平穏に生きて天寿を全うしたのは、実は貞氏だよなw >>409>>417
義康ー義兼ー義氏と続いてその後に義の通字を捨てたのは北条を刺激しないように計らったという説があるな
尊氏は北条の支配から解放されると息子に義詮と名付けて義の字を復活させたとw >>421
尊氏の兄で一時家督を継承した高義の名前もあるから、意識的に「義」を避けていたとは
必ずしもいえないような・・・。
それに義氏の次の泰氏・頼氏あたりは、得宗からの偏諱と「義」の字を組み合わせて
「泰義(義泰)」「頼義(義頼)」みたいな名前にすると、足利義康や源頼義など比較的
近い先祖の名前と被るからなぁ。
あと義氏の「義」に関しても、河内源氏の通字の「義」を使ったのか、それとも
伯父である北条義時からの偏諱なのかは微妙だな。 千早城と赤坂城って同じセットだよね。有名なところなのかな。
最近90年代の大河いくつか観てるけど花の乱や炎立つでも同じような坂出てきた。大抵でっかい軽石転がってるシーン。 >>423
千早赤坂村が田舎過ぎるので名前だけが有名 >>419
さすがに平穏ではなかったろう。足利家の舵取りがかなり難しかったんじゃないか。親父は自殺し跡取り息子は早死にで。もう自分が終身当主で気張るわって気概だったんじゃね。 >>421
尊氏は後醍醐と手切れになったのに、尊の字を捨てなかった謎? 尊氏個人の心情としても、南朝方との交渉の余地を残しておく意味でも、後醍醐からの
偏諱を捨てるなんて絶対にしないと思うが・・・。 ドラマでは後醍醐天皇大好きっ子だからっていちいち説明の要らない設定だったねw >>428
あれはドラマ上の設定というだけでなく、実際かなりそんな感じだったとは思うよ。 >>428
後醍醐天皇との出会いは、鎌倉に造反する理由の一つだしな
ましらの石の尻切れトンボ以外は、上手く物語が作れているよなー >>432
家時の行動となぜにその側室ってなぞだな
頼氏も何故に上杉?
べったり北条の下僕になるなら得宗家庶流だろうが
側室の話はあっただろうに
その辺が静かなる足利棟梁の反骨とみたw 新田政氏は足利義氏の外孫だから、政氏娘と家時は又従兄弟の関係になる。
あと足利義氏は北条時政の外孫だから、この関係を通じて、新田氏にも北条の血は
入り込んでいる。 新田政氏の跡を継いだ新田基氏は1324年まで存命なんだよな。
ドラマでも貞氏と義貞の会話のなかで、「最近祖父基氏殿を亡くされて・・・」みたいな
セリフがあった。 >>386
気の弱い頼氏から家時に頭をすげ替えてまで、北条からの圧力を交わしたのに、その家時まで見殺ししなければならなかった師氏の無念。 >>431
ほっともっとで石がノリ弁を旨そうに食ってたからつられて買っちまったw 大河・太平記に出てくる新田一族では岩松さんがいい味出してたのに
中先代の乱あたりでいつのまにかお亡くなりになっていた(´・ω・`) >>438
よっぽどのエピソードない限りさり気なく死んだキャラは多いべさ
千草殿ですらなんとなーく死んでるご様子だったもの >>438
岩松経家は、鎌倉滅亡後、建武政権下では京都にいるような描き方になっていたから、
中先代の乱で死んだことが直義のセリフのなかで語られている場面を見たときは、
あれ?って思ったよ。 >>436
>気の弱い頼氏
鶴岡八幡宮史や鑁阿寺古文書によると
寧ろ真逆だったらしい
弓の名手であったが病気で早くして出家
足利の吉祥寺で隠匿
しかし死に逝く事が無念であっただろうか
頼氏の怨霊は寺内を彷徨い
本堂前ではどんな馬でも怨霊の見えない恐怖で
暴れ出したと言う逸話もある そういえば足利頼氏(1240年生)の生母は、北条時頼(1227年生)の妹らしいが、頼氏を
産んだとき何歳だったのだろう? 1240-1227=13 なんだから、
妹と確定しているんなら、0歳〜13歳の間で合理的な歳を選べばよろしい
そんな事まで気にしてたら面倒くさいだろにw つまり、12歳or13歳の可能性が非常に高いと結論づけられる 一夜にして人間の評価が変るのが乱世の慣い。尊氏が“筑紫隠れ”の朝、新田義貞は、凱旋将軍として、堂上の歓呼をあびていた。左近衛ノ中将の栄誉、それのみでなく、後醍醐の寵姫・勾当の内侍を賜ったのだ。それにひきかえ、貴顕に生命乞いする佐々木道誉の鵺(ぬえ)ぶり。
また、朝敵たる汚名は逃れたものの、尾羽打ち枯らした尊氏。しかし彼は、北九州に勢力を養い、反攻を意図する。 大宰府から出陣する尊氏が、道誉に石清水八幡宮での
戦勝祈願を依頼した文書が残っているという
観応第二ラウンドの道誉叛逆芝居といい、実に面白い関係だわ 道誉って結果的には、尊氏に有利になるように常に動いているわけでw >観応第二ラウンドの道誉叛逆芝居
直義方も端から信じていなかったみたいだけどねw 多分、義教が赤松に首取られた事件(嘉吉の乱)のことじゃね 今やっているNHKラジオ第一 DJ日本史で足利特集。
尊氏の兄にも言及。 観応の擾乱の頃だと、有力守護のなかで佐々木京極と赤松が尊氏派に一番忠実な印象あるけどなぁ。 赤松が尊氏派ってデカイよね
九州から昇るのに、播磨の赤松が敵ならなかなか難しい 円心の息子の則裕は護良親王の稚児で側近
親父と兄貴が死ぬと護良親王の息子を担いで南朝へ寝返りした
まあ、この寝返りが直義出奔の引き金だけど
マジの裏切りで正平の一統で尊氏が南朝に降るまで延々と南朝で暴れてた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています