【第三十三回】太平記 part.33『千寿王と不知哉丸』
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
第三十三回「千寿王と不知哉丸」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki33.html
前スレ
【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
http://itest.5ch.net/nhk2/test/read.cgi/nhkdrama/1507357471 >>409>>417
義康ー義兼ー義氏と続いてその後に義の通字を捨てたのは北条を刺激しないように計らったという説があるな
尊氏は北条の支配から解放されると息子に義詮と名付けて義の字を復活させたとw >>421
尊氏の兄で一時家督を継承した高義の名前もあるから、意識的に「義」を避けていたとは
必ずしもいえないような・・・。
それに義氏の次の泰氏・頼氏あたりは、得宗からの偏諱と「義」の字を組み合わせて
「泰義(義泰)」「頼義(義頼)」みたいな名前にすると、足利義康や源頼義など比較的
近い先祖の名前と被るからなぁ。
あと義氏の「義」に関しても、河内源氏の通字の「義」を使ったのか、それとも
伯父である北条義時からの偏諱なのかは微妙だな。 千早城と赤坂城って同じセットだよね。有名なところなのかな。
最近90年代の大河いくつか観てるけど花の乱や炎立つでも同じような坂出てきた。大抵でっかい軽石転がってるシーン。 >>423
千早赤坂村が田舎過ぎるので名前だけが有名 >>419
さすがに平穏ではなかったろう。足利家の舵取りがかなり難しかったんじゃないか。親父は自殺し跡取り息子は早死にで。もう自分が終身当主で気張るわって気概だったんじゃね。 >>421
尊氏は後醍醐と手切れになったのに、尊の字を捨てなかった謎? 尊氏個人の心情としても、南朝方との交渉の余地を残しておく意味でも、後醍醐からの
偏諱を捨てるなんて絶対にしないと思うが・・・。 ドラマでは後醍醐天皇大好きっ子だからっていちいち説明の要らない設定だったねw >>428
あれはドラマ上の設定というだけでなく、実際かなりそんな感じだったとは思うよ。 >>428
後醍醐天皇との出会いは、鎌倉に造反する理由の一つだしな
ましらの石の尻切れトンボ以外は、上手く物語が作れているよなー >>432
家時の行動となぜにその側室ってなぞだな
頼氏も何故に上杉?
べったり北条の下僕になるなら得宗家庶流だろうが
側室の話はあっただろうに
その辺が静かなる足利棟梁の反骨とみたw 新田政氏は足利義氏の外孫だから、政氏娘と家時は又従兄弟の関係になる。
あと足利義氏は北条時政の外孫だから、この関係を通じて、新田氏にも北条の血は
入り込んでいる。 新田政氏の跡を継いだ新田基氏は1324年まで存命なんだよな。
ドラマでも貞氏と義貞の会話のなかで、「最近祖父基氏殿を亡くされて・・・」みたいな
セリフがあった。 >>386
気の弱い頼氏から家時に頭をすげ替えてまで、北条からの圧力を交わしたのに、その家時まで見殺ししなければならなかった師氏の無念。 >>431
ほっともっとで石がノリ弁を旨そうに食ってたからつられて買っちまったw 大河・太平記に出てくる新田一族では岩松さんがいい味出してたのに
中先代の乱あたりでいつのまにかお亡くなりになっていた(´・ω・`) >>438
よっぽどのエピソードない限りさり気なく死んだキャラは多いべさ
千草殿ですらなんとなーく死んでるご様子だったもの >>438
岩松経家は、鎌倉滅亡後、建武政権下では京都にいるような描き方になっていたから、
中先代の乱で死んだことが直義のセリフのなかで語られている場面を見たときは、
あれ?って思ったよ。 >>436
>気の弱い頼氏
鶴岡八幡宮史や鑁阿寺古文書によると
寧ろ真逆だったらしい
弓の名手であったが病気で早くして出家
足利の吉祥寺で隠匿
しかし死に逝く事が無念であっただろうか
頼氏の怨霊は寺内を彷徨い
本堂前ではどんな馬でも怨霊の見えない恐怖で
暴れ出したと言う逸話もある そういえば足利頼氏(1240年生)の生母は、北条時頼(1227年生)の妹らしいが、頼氏を
産んだとき何歳だったのだろう? 1240-1227=13 なんだから、
妹と確定しているんなら、0歳〜13歳の間で合理的な歳を選べばよろしい
そんな事まで気にしてたら面倒くさいだろにw つまり、12歳or13歳の可能性が非常に高いと結論づけられる 一夜にして人間の評価が変るのが乱世の慣い。尊氏が“筑紫隠れ”の朝、新田義貞は、凱旋将軍として、堂上の歓呼をあびていた。左近衛ノ中将の栄誉、それのみでなく、後醍醐の寵姫・勾当の内侍を賜ったのだ。それにひきかえ、貴顕に生命乞いする佐々木道誉の鵺(ぬえ)ぶり。
また、朝敵たる汚名は逃れたものの、尾羽打ち枯らした尊氏。しかし彼は、北九州に勢力を養い、反攻を意図する。 大宰府から出陣する尊氏が、道誉に石清水八幡宮での
戦勝祈願を依頼した文書が残っているという
観応第二ラウンドの道誉叛逆芝居といい、実に面白い関係だわ 道誉って結果的には、尊氏に有利になるように常に動いているわけでw >観応第二ラウンドの道誉叛逆芝居
直義方も端から信じていなかったみたいだけどねw 多分、義教が赤松に首取られた事件(嘉吉の乱)のことじゃね 今やっているNHKラジオ第一 DJ日本史で足利特集。
尊氏の兄にも言及。 観応の擾乱の頃だと、有力守護のなかで佐々木京極と赤松が尊氏派に一番忠実な印象あるけどなぁ。 赤松が尊氏派ってデカイよね
九州から昇るのに、播磨の赤松が敵ならなかなか難しい 円心の息子の則裕は護良親王の稚児で側近
親父と兄貴が死ぬと護良親王の息子を担いで南朝へ寝返りした
まあ、この寝返りが直義出奔の引き金だけど
マジの裏切りで正平の一統で尊氏が南朝に降るまで延々と南朝で暴れてた >>471
× 則裕
○ 則祐
せっかく>>467が指摘してくれたのだから、確認しよう。
あと則祐の南朝寝返りは、道誉の寝返りと同様で、直義を京都から追い出す謀略でしょう。
道誉と則祐は舅と婿の関係であり、二人で予め示し合わせてやったとしか思えない。 このドラマは鎌倉幕府の親王将軍は出てきましたっけ? そもそも北条得宗家はなんで将軍になりたくなかったん? 家格が低い。
伊豆国在庁時政子孫では、とても貴種とは言えん。 >>481
護良の令旨がわざわざそれを強調するような文面にしているなw
まあ頼朝を擁して鎌倉幕府の創設に参加した武士たちからすれば、その後に幕府が
北条氏の天下になったこと自体が想定外なのに、将軍なんて絶対に容認できないだろう。 ゆえに、歴代北条得宗は権威ではなく実力で他の同輩御家人を抑え続けるしかないという無理ゲー >>485
マジメな話、何年か前に違法薬物で逮捕されたらしい >>483
さらに言えば北条一族内部でも、泰時の系統が名越流や極楽寺流(赤橋流)を差し置いて
嫡流となれる正統性が元々そんなにあったわけではなさそうだからな・・・。
得宗家って、本当に実力以外に権力維持の担保になるものが何もないんだよなw 内ゲバに巻き込んで危険な豪族を滅ぼすという高等テクニック 内乱は鎌倉内で抑えてたんだからやっぱりすごいよ北条は。太平記はその抑えてたものが爆発したんだろう >>490
まるで北条だけが陰謀巡らしとるような
年表だけど普通に北条も狙われてるという
修羅の世界だしね 結果的に、北条家は鎌倉幕府滅亡まで権力闘争に勝ち続けていただけ、に過ぎないんだよなあ まあ得宗は極度の緊張を強いられる権力闘争を常に繰り広げた結果、代々短命の家系になったわけで・・・。 高時も存命中に帝の挙兵がなく、東勝寺で自刃に追いこまれなかったと仮定しても、史実より十年ちょっとしか生き永らえなかった可能性が濃厚だな Wiki読んだら御内人の専横状態になったの晩年の貞時のせいじゃん
高時おまえは悪くない 幼くして得宗家の当主になったという点では、時宗・貞時・高時はみな同じ。
まあ貞時は晩年に政務放棄しているが、時宗・時頼の場合は晩年は病気がちだったという
問題もあるし・・・。 義貞「我らは源氏、北条は平氏、ゆめゆめ平氏の犬に成り下がるではないぞ」
尊氏兄弟「・・・やっぱ新田は言う事がすげーな・・・」
馬之介「伊豆の呑百姓で平氏じゃねーだろ新田のクソガキが偉そうに・・・」とつぶやく >>502
貞時は嘉元の乱で張り詰めた何かが切れたのかな。
寄合に出なくなり、酒宴続き。 嘉元の乱は貞時が仕掛けた謀略で、しかもその収拾に失敗して
北条諸流からの突き上げが強まって、政務を執れなくなったって説もあるやね
その見方がが正しければ、やる気がなくなったというより、政権末期のレームダックになったって感じになるな 考えてみたら、貞時は平禅門の乱で平頼綱を滅ぼして専制体制をつくりあげたわけで
嘉元の乱も貞時こそが黒幕だったとしても違和感はないしね。
そういや、ドラマの中でも、息子の高時がフランキー円喜の暗殺をしかけてたな
見事に失敗していたけれど(´・ω・`) そのあとも(あくまでに表面的なものだが)高時と円喜が良好な関係を劇中でキープしてるように見えたのは、違和感があった >>508
(あくまでに表面的なものだが)
訂正
(あくまで表面的なものだが) 出家した奴らは法体にして出演して欲しかった。
原作では円喜や高時はじめ坊主だらけなのかな? >>506
>>507
嘉元の乱は基本構図は二月騒動と同じだろうね。
>>508
だって得宗家の御内人は、あくまで得宗あってこその存在だからな。
得宗がいなければ、彼らが権力を持つこともあり得ない。
これは、足利宗家の執事である師直が、あくまで尊氏あっての存在なのと同じ。 得宗の当主は毒殺でもされてんのか?
と思わすくらい早死にが多いよね
おかげで子女も少ない >>515
「時宗」の時の時頼金粉ショーを思い出すなぁ。 北条宗方が内管領(格が高い言い方だと内執権か)となって、ゴタゴタとならずにその路線が成功していれば、内管領を得宗家準主流で占め、御内人を制御していくことになったんだろうか? 足利氏の家紋ってなぜに
源氏の笹竜胆ではなく二つ引にしたん?
源氏北畠家は笹竜胆なのに ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています