【第三十三回】太平記 part.33『千寿王と不知哉丸』
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第三十三回「千寿王と不知哉丸」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki33.html
前スレ
【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
http://itest.5ch.net/nhk2/test/read.cgi/nhkdrama/1507357471 >>759
そうだったのか・・・
堤大二郎が早口の場面なので聞き取りにくいが、
てっきり「名和長年、(麻呂の)下へかしこまれ!」
要するに図が高い、ひかえよ!と激高しているのかと思ってた >>763
>>764
チミとチミ、浅すぎる、知識が浅すぎる
範頼と義経は頼朝の母方と近すぎるからこそ危険視されたんだよ
それを良く知っていた頼朝の母方と近い足利義兼は、次は間違いなく俺だと確信し、出家して気が狂ったフリをした
範頼
・幼少期は由良御前が庇護、浜松にいた叔父(三河の藤姓熱田大宮司家)の息子夫婦に養育させる
義経
・藤原範忠(三河の藤姓熱田大宮司家、足利義兼祖父)立会の元、熱田神宮で元服
・兼高長者(三河の藤姓熱田大宮司家か?)の娘との物語(浄瑠璃姫)
・義経が持っていた源氏の守り本尊(現増上寺黒本尊)は、三河の長者(三河の藤姓熱田大宮司)に預けられた
三河県岡崎市にあった足利義氏の邸宅(足利義氏亭)は明大寺にあったんだが、地名の由来は義経が建てた妙大寺に由来する
生まれも育ちが違うどころか丸被りだったわけだな
教科書とか読んでいるから、そんな間抜けなレスをして恥をかくハメになる >>281
ボキが思うに彼のレベルなら、足利決起の際、最初は細川は出陣を拒み、尊氏が細川郷に馬を走らせ説得した地元の伝承を紹介しつつ、ディープな話で楽しませると思うな
何故拒んだのか、ここを熟考するわけだな THREE CHEERS FOR MI-KA-WA-YA ! 深過ぎる解説をありがトン
我が目から鱗が落ちたわけだな
叔父の息子ってボキならいとこというと思うな
叔父でもいとこでもいいけどあえて名前を明示するのを何故拒んだのか熟考するわけだな
範頼は遠江浜松で育った、義経は尾張で元服し三河で恋愛した
こういうすれ違い程度を丸被りと言って楽しませてくれるわけだな
なんで生まれが丸被りになるのか書かれてないけど
根拠がないことを盲信できないようでは三河屋にはなれないんだな
義経記とか怪しげな地元伝承とか読んでいるから、そんな間抜けなレスをして恥をかくハメになる なるほど、頼朝は自身に近い源氏ではなく、由良御前と生母が違う可能性がある範忠繋がり(源義経、足利義兼)を危険視していたわけだな
特に義経は、三河の熱田大宮司家本拠である岡崎市に縁故を残している
とか簡単にぐぐっとくる返しレスくらい出来んもんかな
長々と頭が悪そうなレスを返しやがって >>760
情勢の変化が急すぎて、脱落者が出る時間的余裕がなかった。
平家滅亡の際は、それなりに脱落者が発生している。 北条滅亡の時は外様はほぼ例外なく裏切ってるのも凄い
逆に言えば寸前まで離反者がほぼいなかったとも言えそれはそれで凄いが 担げる神輿があればなんでも良かったんじゃない?外様が反旗を翻したって後に続く武家もいないだろうし >>775
早くからの離反者がいないのは、直前まで比較的大きな権力を持っていたから。 北条氏って、中先代の乱を除けば、その後に生き残りが反体制勢力に担がれることも、
ほとんどないからなw
最も南北朝分裂後は、北朝&室町幕府に反抗する奴等も、北条氏の生き残りを担ぐより、
遥かに権威のある南朝を担いだほうが、メリットは大きいだろうけどさ。 北条は下国伊豆の土豪、最高でも正四位下で担ぐには家格が低い。
しかも得宗は押し並べて早死にで、なっても従四位どまり。 やっぱり得宗家は、将軍にはなれなくても公卿にはなっておくべきだったな。 直義が越前に脱出してからも、尊氏は直義に帰還を要請している
もともとあの脱出劇が本当に尊氏の策略だったのかも疑問 下級公家でもいいから特捜の娘をやっておくべきだったな。そこから繋いでいけば生き残ったかもしれない。そう、一条能保の子孫のように >>786
わーたーしーだけのじゅーじかー(特捜最前線のテーマ) >>784
赤松は本当に南朝に降ってるからな
道誉は知らんけど >>788
赤松則祐って道誉の娘婿なわけで、道誉と則祐は明らかに同じ意図で動いていたと思うぞ。
まあ赤松が表向きとはいえ担いでいるのが、護良の王子という辺り、かつての建務期に
おける護良派の人脈を活用した感じだがw
あと則祐と道誉の娘との婚姻関係は、赤松の家格の上昇にも大きく寄与したみたい。
後に則祐の子の義則が、赤松氏で初めて侍所頭人になって、赤松は三管領四職に列する
わけだけど、これも赤松義則が道誉の外孫であることが大きかったようだし。 >>785
平氏政権とか豊臣政権とか武士が大量に公卿になっているケースもあるのだし、
尊氏だって将軍になるより遥か以前に、後醍醐の建武政権下で公卿になっている。
もし望めば、得宗家の当主くらいは、公卿相当の官位に昇ることは可能だったんでは? 赤松則祐みたいに父が尊氏方に転じて20年経ってから
南朝に戻るのもいるのだな。
14世紀中盤にもう茶人なんてものがあったのに驚いたけど >>784
裁判、政治の実務を担う直義がいないと、万事上手く回らなかったのかもね。 頼朝公の官位を超えてはダメなのよ。
鎌倉幕府の根幹を揺るがす。
頼朝公の遠戚が将軍に据えられた事実があるのだから。 北条氏が将軍になるしかないんだろうけど、そんなIFどこで実現すればいいんだろうね
平賀朝雅将軍を実現して、姻戚でもなれますよ的な方向に持っていくとか?
でも無理だよね >>792
あの時期は、尊氏も直義も道誉も直冬も、一時の方便として、南朝に下っているから、
赤松だけ殊更に言うことではない。
>>793
あの段階では幕府の政務担当は義詮に交代しているから、仮に直義が帰参したとして、
直義をもう一度政務に関与させる選択肢はなかったと思うけど・・・。
>>794
頼朝の官位を超えるとは? >>796
あれは則祐の挙兵に道誉が同調した形なんだと思う。
弟の氏範ほどじゃないけど、則祐も大して尊氏に思い入れがなかったのでしょ。 >>797
あのときの道誉・則祐の南朝への帰順は、明らかに尊氏・義詮の意を受けてのものでしょ。
ドラマでも、道誉・則祐の南朝帰順は偽りだという感じで描かれていたけど。
まず尊氏・義詮がそれぞれ佐々木・赤松討伐と称して出陣するのが、観応2年7月28日。
そして謀られたと悟った直義が京都を落ちるのが8月1日であり、この段階では、佐々木・赤松討伐は虚偽だという噂が都に充満していた。
その後、義詮は8月3日、尊氏は8月5日に帰京しているが、日数の短さからしても、
尊氏・義詮に本気で佐々木・赤松を討伐する気があったとは思えないし、直義側も
佐々木・赤松が本気で南朝に降るはずないと思ったからこそ、謀られたと認識したわけで。 あと則祐はその後、観応2年いっぱいは南朝方として活動しているが、この年の
10月以降は、尊氏・義詮も(直義を討つために)南朝に下っているから、同年末に
南朝方として活動していても、それは尊氏・義詮に敵対していることにはならない。
そして、翌観応3年(文和元年)になると、道誉・則祐とも義詮の配下で活動している
ことが明らか(この時期、尊氏は鎌倉へ長期出張中)になる。 則祐さんの将軍家への忠誠心がガチなのは幼い義満とのエピソードからでもわかる こういう話はドラマと照らし合わせて面白く読めるから好き
スレと関係ない時代の知識ひけらかす奴は爪の垢でも煎じて飲ませて貰って欲しい >>802
まだ理解していないようだからはっきり言う
スレと関係ない時代の知識ひけらかす三河屋は爪の垢でも煎じて飲ませて貰って欲しい >>800
微笑ましい(爆笑)
ところで赤松さんってノリスケって名前が好きなのね >>812
漢字表記違うけど、兄の名前も範資(ノリスケ)なんだよな。
もっとも則祐のほうは、最初は出家していたから、音読みでソクユウだったらしいが。 赤松さん、太平記だと悪党そのものだけど
播磨の名族なんだっけか
御家人じゃないんだけどね
まあ、御家人って日本全国で500人くらいしかいなかったらしいし 赤松は元々どこの馬の骨か分からない出自だよ。
村上源氏とする系図に信頼性はほとんどないし。 赤松円心を演じた俳優さんって東工大出身なんだよなw とてもそう見えないw
太平記で世間に見出されるまでアルバイトで生計を立てていたとか >>818
なんら変わらないというか、赤松自身が悪党そのものだよ。 >>817
それはないだろ
叡山に息子送り込んで座主の側近になる程度の力はあったんだから 悪党いうても
悪左府頼長とか悪源太義平みたいに
悪の意味は現代とは必ずしも合致しないわけで 悪党そのものってのは現代でいう悪党ってことだろうよ
ちゃんと忖度してやろうぜ 「よいとはどれほどよい?嫁に行けと言えば行ってもよいと思うほどの人物と見たか?」
「はい!」
「よし。足利高氏救うてみよう。このまま北条の敵とするには惜しい男よ…」
これが皮肉にも北条の命運が尽きることになるとは…
。゚(゚´Д`゚)゚。 >>815
波野氏は大内氏の家臣
周防守護職に任じられた大内氏に付き
親政後は北朝側につき足利尊氏を支援 波多野と言えば波多野憲
60年代邦画の名脇役
二枚目だがヒロインの元彼とか既婚なのを隠してヒロインと付き合っている男とか、ダークな悪役専門
京大出身と知ってびっくり 売れないアイドルをめった刺しにしたストーカーの筆下ろしセックスをした波多野結衣 >>826
吉田松蔭の実家の杉氏は、大内重臣の杉氏の末裔? 高杉晋作の家紋は武田菱だね。
安芸武田氏の一族かな? >>831
新垣氏の祖先は沖縄琉球王国の宮使い
だったが庶流が奄美から九州に渡り
南北朝期には渋谷氏に仕える >>766
つべで確認したが確かに早口だなw
名和長年、仔細確かめい。
儂(み)は二品の親王、征夷大将軍なるぞ。
これが正解だと思う。
その後に大塔宮が尊氏と話す場面があるけど、宮が
そちは頼朝の血をひいておる。
と言っててひいてねーよと突っ込んでおいた。 >>842
頼朝と同じ“河内源氏=武家の棟梁の血筋”という程度の意味で言っていると、脳内変換して
見ることはできないの? 八幡太郎義家の血を引いてる
と言っても「?」な視聴者もいるしなぁ 尊氏→腫物
直義→腫物
義持→腫物
腫物のできやすい遺伝なんてあるの?
お尻がかゆくなる >>845-846
そりゃ暴論だ。ライト層は頼朝の直系だと勘違いしてしまう 東スポかなんかのエロ小説で、義朝が妹と不倫の仲になっていたとかいないとかってのを読んだ気がする。
かなり昔。 >>847
初回で高師氏が「八幡太郎義家公より始まる当家を滅ぼすおつもりか?」という場面があるよ。 >>817
それで終わりか、つまらない奴め
前からボキは、なぜ三河に赤松氏所縁の伝承が多いのか不思議に思っていたので、少し調べてみた
赤松を語るのに、殊更特筆されている実父は源顕房ではないかと言われている季房卿がキーマンなんだが、播磨に流されたあと許されて三河守になっているらしい
そして、季房の姉妹が藤原顕隆の室になっていて、顕隆の正室が藤原悦子(父は藤原季綱(三河守))、悦子の従兄弟が初代三河の藤姓熱田大宮司の藤原季範だ
遡れば足利氏と赤松氏は三河で接点があったわけだな 豆知識だが
赤田和城
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Akantawa-jo.html
広祥院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%A5%A5%E9%99%A2
円心が隠れ住んだと言われる赤田和城と高氏所領の広祥院は、直線距離で約1.5キロしか離れていない
赤田和城近くには赤松円心の子孫と主張する赤松さんが現在も住んでいて、子孫の証拠として受け継いできた刀があったそうだが太平洋戦争時に軍に没収されたらしい
また、赤田和城近くの山中に赤松円心の碑があるらしい
たまには面白い話の一つくらいしろ
どいつもこいつも退屈なレスばかりしやがって もう一つ豆知識だが
広祥院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%A5%A5%E9%99%A2
広祥院の裏には奥平家の墓と家臣団の墓があって、福沢桃介が来たことがあるらしい
つまり福沢諭吉の先祖が眠る墓地なわけだな 足利尊氏さんは後醍醐にすげー恩賞貰ってるのな
正三位 参議
鎮守府将軍
武蔵守、三河守、上総介
関東での恩賞取次
もう満足やん >>861
新政時の鎮守府将軍と他の時期の鎮守府将軍はなんか違うけどな
北畠顕家も鎮守府将軍だし、ちなみに従二位参議
右近衛中将(従四位下クラス)
陸奥守
役職の位階が建武新政は違うね、他の時期と >>861
官位相当は時代によって変わるから、中世だと既に律令時代の官位相当制とはかなり変わっている。
鎮守府将軍の場合は、平安期の段階で官位相当以前に陸奥守との兼任が基本になっていた。
>>862
北畠顕家の場合は、就任時にゴネて「鎮守府大将軍」にしてもらったとかいう話もあるな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています