【第三十三回】太平記 part.33『千寿王と不知哉丸』
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第三十三回「千寿王と不知哉丸」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki33.html
前スレ
【第三十二回】太平記 part.32『藤夜叉死す』
http://itest.5ch.net/nhk2/test/read.cgi/nhkdrama/1507357471 >>796
あれは則祐の挙兵に道誉が同調した形なんだと思う。
弟の氏範ほどじゃないけど、則祐も大して尊氏に思い入れがなかったのでしょ。 >>797
あのときの道誉・則祐の南朝への帰順は、明らかに尊氏・義詮の意を受けてのものでしょ。
ドラマでも、道誉・則祐の南朝帰順は偽りだという感じで描かれていたけど。
まず尊氏・義詮がそれぞれ佐々木・赤松討伐と称して出陣するのが、観応2年7月28日。
そして謀られたと悟った直義が京都を落ちるのが8月1日であり、この段階では、佐々木・赤松討伐は虚偽だという噂が都に充満していた。
その後、義詮は8月3日、尊氏は8月5日に帰京しているが、日数の短さからしても、
尊氏・義詮に本気で佐々木・赤松を討伐する気があったとは思えないし、直義側も
佐々木・赤松が本気で南朝に降るはずないと思ったからこそ、謀られたと認識したわけで。 あと則祐はその後、観応2年いっぱいは南朝方として活動しているが、この年の
10月以降は、尊氏・義詮も(直義を討つために)南朝に下っているから、同年末に
南朝方として活動していても、それは尊氏・義詮に敵対していることにはならない。
そして、翌観応3年(文和元年)になると、道誉・則祐とも義詮の配下で活動している
ことが明らか(この時期、尊氏は鎌倉へ長期出張中)になる。 則祐さんの将軍家への忠誠心がガチなのは幼い義満とのエピソードからでもわかる こういう話はドラマと照らし合わせて面白く読めるから好き
スレと関係ない時代の知識ひけらかす奴は爪の垢でも煎じて飲ませて貰って欲しい >>802
まだ理解していないようだからはっきり言う
スレと関係ない時代の知識ひけらかす三河屋は爪の垢でも煎じて飲ませて貰って欲しい >>800
微笑ましい(爆笑)
ところで赤松さんってノリスケって名前が好きなのね >>812
漢字表記違うけど、兄の名前も範資(ノリスケ)なんだよな。
もっとも則祐のほうは、最初は出家していたから、音読みでソクユウだったらしいが。 赤松さん、太平記だと悪党そのものだけど
播磨の名族なんだっけか
御家人じゃないんだけどね
まあ、御家人って日本全国で500人くらいしかいなかったらしいし 赤松は元々どこの馬の骨か分からない出自だよ。
村上源氏とする系図に信頼性はほとんどないし。 赤松円心を演じた俳優さんって東工大出身なんだよなw とてもそう見えないw
太平記で世間に見出されるまでアルバイトで生計を立てていたとか >>818
なんら変わらないというか、赤松自身が悪党そのものだよ。 >>817
それはないだろ
叡山に息子送り込んで座主の側近になる程度の力はあったんだから 悪党いうても
悪左府頼長とか悪源太義平みたいに
悪の意味は現代とは必ずしも合致しないわけで 悪党そのものってのは現代でいう悪党ってことだろうよ
ちゃんと忖度してやろうぜ 「よいとはどれほどよい?嫁に行けと言えば行ってもよいと思うほどの人物と見たか?」
「はい!」
「よし。足利高氏救うてみよう。このまま北条の敵とするには惜しい男よ…」
これが皮肉にも北条の命運が尽きることになるとは…
。゚(゚´Д`゚)゚。 >>815
波野氏は大内氏の家臣
周防守護職に任じられた大内氏に付き
親政後は北朝側につき足利尊氏を支援 波多野と言えば波多野憲
60年代邦画の名脇役
二枚目だがヒロインの元彼とか既婚なのを隠してヒロインと付き合っている男とか、ダークな悪役専門
京大出身と知ってびっくり 売れないアイドルをめった刺しにしたストーカーの筆下ろしセックスをした波多野結衣 >>826
吉田松蔭の実家の杉氏は、大内重臣の杉氏の末裔? 高杉晋作の家紋は武田菱だね。
安芸武田氏の一族かな? >>831
新垣氏の祖先は沖縄琉球王国の宮使い
だったが庶流が奄美から九州に渡り
南北朝期には渋谷氏に仕える >>766
つべで確認したが確かに早口だなw
名和長年、仔細確かめい。
儂(み)は二品の親王、征夷大将軍なるぞ。
これが正解だと思う。
その後に大塔宮が尊氏と話す場面があるけど、宮が
そちは頼朝の血をひいておる。
と言っててひいてねーよと突っ込んでおいた。 >>842
頼朝と同じ“河内源氏=武家の棟梁の血筋”という程度の意味で言っていると、脳内変換して
見ることはできないの? 八幡太郎義家の血を引いてる
と言っても「?」な視聴者もいるしなぁ 尊氏→腫物
直義→腫物
義持→腫物
腫物のできやすい遺伝なんてあるの?
お尻がかゆくなる >>845-846
そりゃ暴論だ。ライト層は頼朝の直系だと勘違いしてしまう 東スポかなんかのエロ小説で、義朝が妹と不倫の仲になっていたとかいないとかってのを読んだ気がする。
かなり昔。 >>847
初回で高師氏が「八幡太郎義家公より始まる当家を滅ぼすおつもりか?」という場面があるよ。 >>817
それで終わりか、つまらない奴め
前からボキは、なぜ三河に赤松氏所縁の伝承が多いのか不思議に思っていたので、少し調べてみた
赤松を語るのに、殊更特筆されている実父は源顕房ではないかと言われている季房卿がキーマンなんだが、播磨に流されたあと許されて三河守になっているらしい
そして、季房の姉妹が藤原顕隆の室になっていて、顕隆の正室が藤原悦子(父は藤原季綱(三河守))、悦子の従兄弟が初代三河の藤姓熱田大宮司の藤原季範だ
遡れば足利氏と赤松氏は三河で接点があったわけだな 豆知識だが
赤田和城
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Akantawa-jo.html
広祥院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%A5%A5%E9%99%A2
円心が隠れ住んだと言われる赤田和城と高氏所領の広祥院は、直線距離で約1.5キロしか離れていない
赤田和城近くには赤松円心の子孫と主張する赤松さんが現在も住んでいて、子孫の証拠として受け継いできた刀があったそうだが太平洋戦争時に軍に没収されたらしい
また、赤田和城近くの山中に赤松円心の碑があるらしい
たまには面白い話の一つくらいしろ
どいつもこいつも退屈なレスばかりしやがって もう一つ豆知識だが
広祥院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%A5%A5%E9%99%A2
広祥院の裏には奥平家の墓と家臣団の墓があって、福沢桃介が来たことがあるらしい
つまり福沢諭吉の先祖が眠る墓地なわけだな 足利尊氏さんは後醍醐にすげー恩賞貰ってるのな
正三位 参議
鎮守府将軍
武蔵守、三河守、上総介
関東での恩賞取次
もう満足やん >>861
新政時の鎮守府将軍と他の時期の鎮守府将軍はなんか違うけどな
北畠顕家も鎮守府将軍だし、ちなみに従二位参議
右近衛中将(従四位下クラス)
陸奥守
役職の位階が建武新政は違うね、他の時期と >>861
官位相当は時代によって変わるから、中世だと既に律令時代の官位相当制とはかなり変わっている。
鎮守府将軍の場合は、平安期の段階で官位相当以前に陸奥守との兼任が基本になっていた。
>>862
北畠顕家の場合は、就任時にゴネて「鎮守府大将軍」にしてもらったとかいう話もあるな。 禁門の変で長州藩は天龍寺に陣を置いていたとのこと。
今日の大河で知りました。 >>866
それ以前に、応仁の乱や慶長伏見地震でもやられている。 >>860
あれ、何で「征東大将軍」じゃなくてただの「征東将軍」なんだろう?
かつての木曽義仲でさえ「征東大将軍」だったし、北畠顕家(というか親房)がゴネて
「鎮守府将軍」を「鎮守府大将軍」に変えさせた件とかも踏まえると、尊氏に大将軍号を
与えないのは何だかなぁ。 君は答えがわかってるのにわざと聞いてるね。レス乞食の手法は嫌われるからやめたほうがいいよ。 >>870
真面目な乞食と
性格歪んだ>>870貧乏人の生暖かいレスのやりとり
微笑ましい 赤松円心さん
意外と建武政権で恩賞もらってんのな
まあ護良親王失脚で播磨守護職失ったけど >>874
そもそも護良失脚前に、赤松は播磨の守護職なんて持っていたっけ? 口約束に近い格好で与えられてる
実態は護良親王の先走りだけど >>877
後醍醐帝に直接、というのは大きいね
赤松は六波羅陥落への貢献大きいのに
息子の則祐が法親王時代からの護良側近で、その護良自身が・・・・・・ >>877
結局生き残ったのは赤松で滅びたのは名和 有馬記念に名前を残す競馬の父・有馬頼寧伯爵は赤松則村の五男が始祖で有馬流赤松氏 名和って元々は魚売りとかだったっけ。
散所の親分・楠木といい、ほんと後醍醐はそこら辺のうさんくさい馬の骨ばっか集めてた異形の王だな。 >>882
後醍醐自体がうさんくさいオッサンだし。 >>884
得宗家御内人内管領をも輩出した長崎氏に関係が深い御家人だぞ >>886
じゃあ何で棒読みボクサーは淀の津で北条の手下どもと争ってたの? >>887
御家人同士の小競合いなんぞよくあること
挙兵だって後醍醐さんにコロッといかれてもおかしくない
承久の乱の時の大内みたいに >>884
当時の御家人はみんな得宗被官になっちゃってるからそれだけじゃ差別化にならんのよね >当時の御家人はみんな得宗被官になっちゃってるから
嘘はいかんぞ、嘘は >>880
いやそこいらじゅう得宗被官だらけ状態だぞ鎌倉幕府末期は >>880
名和氏は滅んではいないよ。
戦国期まで、肥後国八代郡に勢力をもっているし、その子孫は近代にも名和男爵家として続いている。
まあ赤松氏の子孫も、近代には赤松男爵家となっているが。
>>881
赤松庶流の有馬氏の子孫は、近世には久留米藩主になった家系(有馬伯爵家)と、
下野吹上藩主になった家系(有馬子爵家、徳川吉宗の側近有馬氏倫の子孫)があるね。
あと十年ほど前に国民新党の幹事長だった亀井久興が、有馬頼寧の外孫だね。
ちなみに亀井久興の家自体は、佐々木塩冶氏の庶流で近世に津和野藩主として存続した
亀井伯爵家の流れ。
ついでにいうと、有馬頼寧は岩倉具視の外孫でもある。 >>895
そうだね。
摂津国有馬郡を領していたから、それが苗字になった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています