西郷がさかんに「民のため」と言っているが
史実では西郷はルソーを中江兆民より早く原語で読んでおり
民主主義を完璧に理解していたというのが定説である
イギリスに接近したのも議会政治を学ぶためであった

討幕ももちろん民主主義の実現のために行われたのであり
汚いことは全て大久保が担当しており西郷は関与していない
もともと平和主義者であった西郷は戦争に抗議してしばしば地元に帰っている
決して体調不良のためではない
なお慶喜の切腹を主張したのは独裁者に対する強い怒りがあったからである

明治4年に参議に就任した時も3年以内の国会開設が条件であった
だが権力欲にまみれた大久保らはその実行を嫌い国外に逃亡する
2年後に起きた征韓論政変は政府側要人の日記が大幅に改ざんされており
実際に議論されたのは国民主権、平和主義、人権尊重の憲法制定であった
直後に板垣退助らが民選議院設立建白書を出すのが何よりの証拠である
                      (民明書房「日本のお花畑)