【謎の歴史観】西郷どん その4【なんで史実じゃダメなんですか?】
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>>464
何説でもなかった
誰かわからんけど暗殺されたってだけだ
おりょうが西郷疑ったが否定も肯定せず 討幕の密勅も、それ自体が武力蜂起に結びつく性格のものではない
国元の反対、芸州藩の離脱で京の薩摩藩邸も反対派が優勢になり
いま一度薩長芸の盟約を固め直すために中御門経之に対し詔書が求められる(9日)
だが9日には長州藩の出兵中止の報がもたらされ、小松以下3人の帰国説得が決定
この時点で土佐藩側に対しては挙兵をいちおう中止したことが伝えられている。
だからこの時点で即時挙兵は既にない
密勅は、おそらく国元の反対を説得するために出してもらった標本のようなもの。
その後の11月の藩主忠義の出兵ですら、武力行使という性格はない。
薩摩藩が藩として「討幕」に突入したのは、鳥羽伏見の戦いまでない。 >>465
当時の京都は名もない通り魔が毎日何人も要人問わず斬りまくってたからただ運が悪かったってだけだろ。本人も大政奉還見れて気が抜けたんじゃないのかな 龍馬は自業自得だよ
人殺してるんだからしょうがない >>464
誰だか分からない人が龍馬を斬り殺しましたという解釈は、現時点では素直でよいと思った。
いまだ定説がない、真犯人が本当に分からないのだから、それを詮索したって仕方ない。
しかしあえていえば、(龍馬のような)武器商人は、恨みを買いやすい職業だと思うな。 龍馬暗殺に関連するが、「想房・河井正博」という小説家志望の方が、戊辰戦争のころの
小銃と大砲がどうなってたか上手にまとめていた。興味深い内容だったのでリンク貼っとく。
兵器の散歩 - 4.ゲベールからスペンサーまで(幕末の小銃)
https://ncode.syosetu.com/n1045cf/4/
兵器の散歩 - 15.幕末維新の大砲
https://ncode.syosetu.com/n1045cf/15/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) 薩摩藩邸焼き討ち事件のあらまし
・西郷、益満・伊牟田らを江戸に下向させ、留守居篠崎彦次郎とともに公然と浪人を募集する
・名目は「天璋院様御守衛のため」、500人が集まる
・10月下旬から騒乱が始まり、12月にピークを迎える
・新徴組では手に負えなくなり、10月末に歩兵半大隊・撒兵二中隊・奥詰銃隊・遊撃隊などを投入
・11月2日に城門の勤番を増加、30日には前橋・佐倉・壬生藩らを庄内藩に増援
・12月18日には52藩に藩邸付近の警備を命じ、一宮・泉・館山・新庄藩らが上野・芝を警護
・23日、江戸城二の丸炎上、薩摩藩士と通謀しての放火とのうわさ流れる
・陸軍が江戸各所に出動し全面的な戒厳体制に。しかし警備隊は浪人をはばかり遠巻きで見てるだけ
・関東各地でも11月〜12月にかけて蜂起が相次ぎ幕府・諸藩軍が出動
(鯉淵四郎以下の相州荻野陣屋襲撃、竹内啓以下の下野での騒乱、上田修理以下の甲府城奪取未遂
上総、下総、水戸方面にも浪士が向かう)。なお浪人たちは薩州藩士と公称する
・海陸軍の士官、薩摩藩邸攻撃を要求、有司が評議
・23日夜、砂土原藩隊が庄内藩士詰所を襲撃、藩士を殺傷(22日にも新徴組士が殺傷)
・24日、庄内藩、「膺懲」がなければ任を辞すると申し出る
・攻撃許可。諸藩+幕府陸軍も加わり藩邸攻撃
・逃れた浪人は翔鳳丸に乗船し逃走、幕府軍艦の回天が追撃・砲撃
翔鳳丸はこのあと阿波沖海戦に参加 なんかヒストリアで「蒙古襲来時、日本軍は化学兵器を使った」なんて言ってるな
どういう意図か確と見てやろうじゃねーか そういえば蒙古襲来絵詞に描かれてる蒙古兵、全員歩兵ばかりだな
蒙古騎兵がいたらあっという間に負けたかも だいたい、交易する気がないのならその旨返書すればいいのに、
返事しなかったなんて問題先送りにしてただけでは? 糞尿を投げ込んだとか証拠のない話をするな!!
当て推量でよけりゃ俺がもっと面白い話してやるよ。
糞尿投げ込むより油と松明でも投げ込んだほうがいいだろ >>470
一応物語なんだから、
主要人物を殺したのが主人公なのかどうかは
ハッキリさせないと不誠実じゃないかな?
面倒くさいクレームが嫌だから有耶無耶って言うんじゃあ、それは手抜きだ Twitterで自称元学芸員とやらの幕府は一度も大政を委任されたことがないなんて
デタラメが上位にあがってるw
視聴者の水準なんてそんなもん >>207
これはいくら何でも冗談が過ぎるだろう、と思い込んでたが、類似のお花畑史観が書かれていました
明治維新から150年続く、民主国家構想を潰した「長州レジーム」とは? | ハーバービジネスオンライン
https://hbol.jp/174985
・明治維新は、議会制民主主義に基づく平和国家をつくる構想を潰した!?
・江戸末期に生まれた、民主的な国家構想
・西郷隆盛が“転向”、赤松の暗殺で民主国家構想が闇に葬られた!?
・戦後も続く、攘夷・排外主義の「長州レジーム」
・長州レジームVS.日本国憲法レジーム >>477
薩長同盟は描いても、同じく坂本龍馬が同席して締結した薩土盟約は描かないとか
(町田明広氏によれば)薩長による武力倒幕に賛同し追従するため龍馬は上京して
暗殺されたとのことですが、新説にもとづく描き方をしないとか、不思議なシーンでした。
龍馬暗殺の真犯人はぼかしたけど、でも龍馬暗殺の場面それ自体は史実にかなり近い
と思いますよ。まあ、坂本龍馬は西郷どんの主人公じゃないから、勘弁してあげたら? 幕末って史料が多すぎて新説って今まで誰も詳しく読んでなかったものを検証したら
従来の説と違うことが書いてあったってケースが多いからな
もっと古い時代の新説にありがちの単なる想像と一緒に考えてはいかん 西郷が悪モードに入っても鹿児島に帰ると呑気の音楽に変わるのには苦笑した
一つ良いところをあげるとすると西郷の弟が批判的な視線で見つめている描写が良かった >>481
いや、龍馬(脇役)を殺した犯人が判明してもしなくても問題ないと思うけど、
主人公が何したのか不明ってしちゃうと、
主人公が見ている人から離れた存在になっちゃうよねって事を言いたかった
主人公の決断や苦悩(とそれらの中身)を描かないと >>481
坂本の行動を討幕派よりに解釈する説は40年以上前からあって、
べつに新説ではない、むしろ極端すぎる旧説
おそらく木戸への9月20日付書簡で乾と後藤を交代させるとか
あのあたりが根拠なんだろうけど上洛後の坂本の行動と整合しない
(上洛後の坂本は土佐藩の建白受け入れを働きかけている)
長州藩と関係が深く、一方で土佐藩士としての顔も持ってたから
場面場面で相手に合わせた発言してるというだけのこと >>489
暗殺直前の坂本龍馬の行動の解釈は、昔からずいぶん揺れているのですね。
1次史料に近づけば近づくほど、龍馬は行動に整合性がなく、矛盾のかたまりのように感じる。
だから芝居の演出家からは愛されたのかもしれない。何十通りでもちがう描きかたができるから。 「楠木正成が煮立ったウンコ敵にぶっかけたから元寇でもやってた」
公共放送がいいかげんなこといってんじゃねーよ
これで受信料強制徴収なんてもりかけなんてかわいいレベルの国家的詐欺だ。
そもそも楠木正成は本当にそんなことやってたのか?確かに太平記には
そう書いてあって痛快ではあるが、現実にやったらどうなるか想像できないのか?
そんなの、大釜で煮込むほうがほとんど拷問に近いじゃないか!!
敵にふりかける前に、味方のほうが倒れてしまうだろう。
さらに問題なのが、「ウンコそのものには殺傷力がほとんどない」ということだ。
いくら臭くても汚くても、根性のあるやつなら構わずに突進してくるだろう。
煮立ててたら火傷するかも知れないが、それなら最初から熱湯をかけたほうがいい。
水と違ってウンコを狙い通り敵に当てるのは至難の業だ。やったことないけど。
そればかりではない。水洗トイレの完備した現代人はウンコ見ただけで逃げ出すかも知れんが、
戦後まもなくまで、東京都内ですら「肥たご」というものがあり、落っこちる子どもが大勢いた。
ウンコくらい別に珍しくもない日常茶飯事だtらのであつ。
まして14万もの大軍が押し寄せた博多湾も伊万里湾も海洋投棄されたウンコで黄色く染まっただろう。
迎え撃つ数万の日本軍もそこら辺で野グソ(変換できないんだ。)
今さら誰がウンコくらいでビビるんだよ。
「博多湾がウンコ色に染まった夏、元軍は疫病で戦力低下した」とか
当て推量なら俺がもっと面白い話してやるよ。
ネットより面白い話を公共放送がやってみせろよ。 >>491
>敵にふりかける前に、味方のほうが倒れてしまうだろう。
>いくら臭くても汚くても、根性のあるやつなら構わずに突進してくるだろう。
何で味方は倒れるのに敵は突進できるんだ >>492
発想を変えよう
味方が煮込んでも平気なものをふりかけられたからといって、
敵だけ平気じゃないと思うか? >>493
もしかして自分で書いた矛盾に気づいてない? >>494
味方が煮立てる際に無防備で実行する筈がないと思うが >>496
うん、鎌倉時代にどんな防備法があったの? >>497
そりゃ文献を当たるしかないだろう
扇ぎながら鼻でもつまむくらいしか俺は思い当たらないが >>490
みんなそんなに定見があるわけじゃない
だいたい組織の都合と雰囲気で決めてますから サラリーマン川上君
七三ってそんなに恥ずかしいの?なんで?
それよりセクシー部長を出してくれたらいいのに 日テレとコラボしたのか
両方見比べるの忙しいな
テレビ二台ほしいよ 10月に予定されてたのは薩長による「武力討幕」じゃないんだがな
西南雄藩の動きを中心に描くという古い構図が頭から抜けきらないから
おかしなこと言っちゃうんだろうな 本来なら最終回ネタの江戸城無血開城が残り10分のネタか
って、いきなり篤姫出してんじゃねえ 少しはいいことも
「慶喜を生かしておくと必ず復活する!」 この一言で、
私個人の長年の謎が1つ解けました。
慶喜といえば「貴人情を知らず」 明治の世にあって、
困窮する幕臣を尻目に自分だけ贅沢して自転車乗ってた。
いくら何でも酷い、と私は若い頃から義憤を感じていたけど、
これは大石内蔵助のような深謀遠慮だったのかも。
つまり、薩長閥による明治新政府は必ずしも好評ではなかった。
そんな中、前政権の当主が部下と苦楽を供にし、
人望を集めていたらそれこそ内乱になりかねなかっただろう。
あえてバカ殿を演じることにより、「俺も幕臣も無害だからこれ以上するな」
と言いたかったのかも。あくまで私の当て推量であって、
単に本人の地であるような気もぬぐいがたいが。 そんな処世術は古の三国志とかでもありふれた話だろ
策では無くて、意思表示とか交換条件って事なら分かる
結局カムバックしなかったんだし忠臣蔵の話とは、むしろ真逆だな >>512
豚姫は、西郷が惚れ込むに値する程度の知性と剛毅をもって演じさせて欲しかったなと思う。
でもまあ仕方ないか。架空の人物だし、京から離れられないだろうし。 家近良樹「その後の慶喜」に詳しいけど
慶喜が静岡でリタイア生活送ってたのは勝・大久保など旧幕臣に
表に立つ言動を控えるよう言われてたからでしょ
社会的言動ができないんだから後は趣味に打ち込むしかない
幕臣が苦しんでいるのにというけど、腹心の永井尚志にすら会わないほど徹底した謹慎で
渋沢以外ろくに家来に会えないんだからどうにもならない 静岡で幕臣が必死で農作業やってるすぐ横を自転車で走ってたそうじゃないか 無血開城前なのに江戸城から接収した毛で作った白熊被ってる >>515
好きな趣味にお金をかけて、贅沢三昧を"徹底した謹慎"とは言わないと思う。 危惧されてたことではあったけど、結局薄っぺらな幕末学園ドラマのままだったなぁ
獅子の時代、翔ぶが如くは何度も見返すけど、2度と見返すことはない大河だからもうどうでもいいけど >>518
謹慎じたいは明治2年9月に解除されている。
だから同年10月5日には宝台院を出て紺屋町の屋敷に移り、美賀子夫人と同居。
しかしその後も勝海舟らの求めで静岡で暮らしたというだけ >>516
上京した時に静岡と同じく猟をしたら百姓の畑を荒らして
百姓が激怒してるから感覚がズレてるのは間違いない
別人種だな 贅沢三昧、遊蕩に耽るというのが時の権力者を欺くには1番いいんだよ
大石内蔵助もそうだったろ 鳥羽伏見の戦いが慶喜の本意でなかったというのは疑わしい
開戦の報を受けた慶喜は仰天して戦闘中止を命じる ここまでは史実
ただしこの後、陸軍が不思議がり「入京後は開戦になるという奏聞書と討薩表は届けたはずだが。
思し召しから出たのではないのか」と反論して書付を見せた
これを見た慶喜は板倉に文句を言った程度で、あとは怒らなかった
なぜ大して怒らなかったのかいまだに不思議だという近習の回想がある
要するに、慶喜は滝川らの進軍を黙認していたし、入京後に薩摩藩兵を攻撃することも知っていた
相手に悟られないよう弾込めをせず穏やかに進み、その後で戦闘を始めるつもりが、
バカの極みというか入京前に薩摩藩兵から先制攻撃をかけられることは予想していなかった 史実派・史実厨には厳しい冷酷な宣告がきた
大河ドラマ「西郷どん」プロデューサーに聞く 大胆な脚色「年表のように再現しても人物の本質描けない」
http://www.sankei.com/west/news/180926/wst1809260025-n1.html 史実なんざ問題じゃねえ
フィクションだろうが構わないが面白くないから文句あるんだ ワシは面白い。
色んな言葉が飛び交ってる。
勝の江戸言葉かっけー。 なるほどー
西郷隆盛の本質ってこういうだったのかもなー
ってこのドラマを見て思っている人なんか、
マジで1人もいないんじゃないか?w 錦の御旗はインチキだと思っていたが、その通りだった。 インチキであってもみんなが信じて大ブームになったらいいんだよ
せめてインチキにしてくれよ。せめて。 第36回 慶喜の首
http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/54198254.html
考証もだめなんだろうな。
原口泉は最近の研究にアップデートしきれてるか微妙だし
磯田に至ってはその辺の歴史愛好家と大差ないだろ 歴史家って職業も、自分の思想や信念を背負ったものもなく
ただの小器用な歴オタが売名出来て研究職をゲットして良かったねってだけでしょ? おい、台風どうしたんだよ
画面のすみに台風情報出しとけ 慶喜は政治家ではなく官僚だな
官僚は人徳なくても務まるが政治家は人望がないと無理 (鹿児島)市街地近郊の高台にある「西郷野屋敷跡」へ行って来た
たぶん城山決戦の前後に西郷一家が隠れ家にしてたのではないかな、参議辞職し下野してから西南戦争勃発前まで狩りをする際の休憩場所にしてたらしいが
起伏があってゲリラ戦に向いてるから決戦は城山でなく此処でやればよかったのに
因みに鹿児島実業高校正門前の(道路はさんで)向かい側が入口 東京ロストワールド そう夫岩 いいね
一番苦労してそうなカメラさんにエールを送りたい
いつかのダイオウイカもそうだったが、こういう自然科学分野もがんばってほしいものです。
そういえば地球ファミリー無くなったから里山の風景も見なくなったな 川口浩が洞窟に入る
カメラさんと照明の後で入る
ガチ探検だったら照明も浴びないカメラさんたいへんだよな
Youtube で久々に川口隊長見ようとしたら、何が起きたの?
Youtube なんでこんなに登録がうるさくなってるの? >沖縄サヨクによるフェンス汚損の証拠映像
何故警察は、逮捕しないの?
https://www.youtube.com/watch?v=MVAlb78fcPY
中共工作員や反日サヨクを野放しにする知事を選ぶと危険です。ロシアに侵略されているクリミアや、中国に侵略されているチベットみたいに沖縄がなってしまいます。 史実って何それ美味しいの?
明治維新とは・・
エゲレス様に乗っ取られただけじゃっど。
吉之助 西郷は3月5日夜に吉井幸輔にあてて
「進めとの一令相発し候えばすぐさま江戸へ討ちいるばかりに罷りなり候」
(総督有栖川宮の駿府到着で)と有名な書簡を送っている
この書簡は幕府にも勝海舟や大久保一翁などがいるので戦うのが楽しみだと書いているが
そのあとで「地獄にて御待付申上置候て」と記している
少なくとも翌6日の時点まで西郷が江戸総攻撃を断行する気だったのは間違いない
15日および4月11日の城引き渡しの際にも三方から江戸に放火する準備をしてから乗り込んでおり
江戸が救われたのはかなり偶然。一つの要因に、3月13日の初日会談の後のパークスの強硬な反対があった >>543
パークスのパもエゲレスのエもまったく出なかったね(BS放送でみた西郷どん37話)
しかしフランス公使ロッシュだけはヒー様の口から出た。
実物の西郷はもっと好戦的な人だったはずなのに、あんな解釈でいいのだろうか。 >>542
仕事の都合で見れないから好きにやってくれ ひい様って松田優作のご子息だったんだ。
野性的だった父とは目の光からして違うな ttp://blog.livedoor.jp/matrix_zero1/archives/2072072.html >>543
パークスの反対なんて何の影響もない
慶喜が西郷側の条件飲むかどうかでしかなく
飲まなければパークスがいくら反対しようが江戸攻めになった >>552
影響はあるよ。影響ない派は「15日の総攻撃中止に」影響がなかった、
という点を強調するんだよ。いう間でもないが江戸無血開城は4月11日まで不確定
14日の会談で決まったのは翌日の攻撃の中止であり総攻撃自体の中止ではない、それも西郷の独断
従って板垣退助などは強い不満を表明している
東山道軍や京の新政府を説得する際にパークスの勧告が使われたことは確実
パークスが征討過程における新政府の説明不足を指摘したことは岩倉具定書簡にもみえる
さらに
>慶喜が西郷側の条件飲むかどうかでしかなく
>飲まなければパークスがいくら反対しようが江戸攻めになった
↑
この説の決定的な弱点は、14日の勝の嘆願書の内容は駿府での西郷・山岡会談の内容を
「受け入れていない」こと。全ての条項について留保つき回答をしているし、
勝が山岡の回答を知ったのは10日もしくは12日なので、もともと丸のみする時間的余裕がない
しかも4月4日に呈示された最後通牒も陸海軍の脱走にあい、11日の開城直前に勝が修正回答を行っている
ちなみに研究書などを見てみたが、「パークスの勧告が江戸無血開城に影響がなかった」などとしているものはない
3月14日の会談との先後関係を指摘してるものならあるけど、それは前述の通りあくまで15日の攻撃に関するもの
申し入れたのは慶喜の助命のみであり過大評価すべきではないというのならあるけどね 元々西郷の3月上旬までの超強硬論も独特の行動パターンによる独走の部分が大きく
なぜ和平論に転換したのかはわかりづらい
当初から計算ずくで強硬姿勢を取ったとは思えず、9日頃から14日に至るまでに
様々な方面から働きかけを受けてたぶんに個人の裁量で中止に至ったとみるのが妥当 >>555
脚本の西郷の人間性と史実が食い違ってきたから無理やり補正したってのが事実だよ >>555
西郷は最初は強硬論を吐くけど強硬論をやった事はない
長州征討の処分にしろ、慶喜にしろ、庄内藩にしろ
強硬論を背景に交渉するという外交姿勢 西郷の強硬姿勢が戦略的で相手を譲歩させる方便だという誤解が結構あるけど
あの強硬姿勢は西郷の性格的特徴というか、本心なんだよね
長州征討のときも戊辰戦争のときも、戦争直後は極度に興奮してる
長州征討の時は国元の島津久光が内戦を危惧する方針だったので熱が冷める形になるが
それでも10月に慶勝総督に献策した時点では一撃講和論に近い(あくまでも一撃は主張する)
11月に吉川経幹と会って三家老切腹を履行させてからようやく穏健論に移行する
(11月16日の開国開城論においては長州藩側に立つ)
当初から戦略的に強硬論を活用したというのは全くの間違い
江戸城開城交渉でも基本的に同じような経過をたどっており、
要するに自分が大きな裁量権もらって現場行って相手が信頼できて初めて許す
という当たり前のことをしてるだけで、「戦略的」というのとは違う
あと庄内問題は、そもそも西郷が数日しか庄内に滞在しなかったこと、
任を引き継いだ黒田清隆が明治2年1月に菅秀実に「西郷の指示」として語ったことが広まったので、
実際、どの程度の指示がなされたかは疑問ではある
(庄内藩兵はほぼ無傷で撤退を完了しており、もともと強硬策は取りようがなかった) 慶喜も変説で有名だが西郷も変説の常習犯
理由は、事件直後にはめちゃくちゃに興奮して裁量権をもぎ取って前線に行くけど
その辺で1カ月経って徐々に醒めてくるから
だから京の太政官は西郷に不信感を抱く者が少なからずいるし、
現地の長州藩兵なども「薩の横暴」に不満の声が出るようになる 昔、ヒストリアの大村益次郎特集で、彰義隊をなかなか攻めない西郷に対し、
「西郷は幕府に譲歩し過ぎる」として京都から大村益次郎が送り込まれ、
一日で攻め落としたとかやってたな。 ◆幕末,維新をねつ造する歴史教科書◆
それを踏まえて「幕末、明治維新」の時代背景を考察すれば
「今教えらている歴史に齟齬がある」それを考察してみよう
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「維新の三傑」は習ったでしょうが,本当は「維新の十傑」である
@、西郷隆盛(さいごうたかもり) 薩摩藩 1828年〜1877年
A、大久保利通(おおくぼとしみち) 薩摩藩 1830年〜1878年
B、木戸孝允(きどたかよし) 長州藩 1833年〜1877年
C、小松帯刀(こまつたてわき) 薩摩藩 1835年〜1870年
D、大村益次郎(おおむらますじろう) 長州藩 1824年〜1869年
E.前原一誠(まえばらいっせい) 長州藩 1834年〜1876年
F、広沢真臣(ひろさわさねおみ) 長州藩 1834年〜1871年
G、江藤新平(えとうしんぺい) 肥前藩 1834年〜1874年
H、横井小楠(よこいしょうなん) 肥後藩 1809年〜1869年
I、岩倉具視(いわくらともみ) 公家 1825年〜1883年
↓
この10人の内うち4人が暗殺され,3人が「明治政府に対して反乱」を起こし、最終的に刑死又は自害している
、
、
特に後に「佐賀の乱」を起こす「江藤新平」は明治政府に所在し
日本中に警察組織、裁判所制度を確立した人物である
また清廉潔白,誠実さ,愚直さは「西郷隆盛」に似ており
「西郷隆盛」と不思議と馬が合った
↓
明治6年の政変で「征韓論」が唱えた西郷を支持し江藤も支持、それが否定されると西郷は明治政府を辞任する際江藤も辞任する
後に2人共明治政府に対して反乱を起こすが「2人共,士族救済の為の義挙」と言える
↓
しかし2つの反乱は明治政府に鎮圧されたが首謀者の扱いが段違い
↓
「江藤新平」に対しては当時「三権分立がない」のをいいことに
「明治政府の圧力があったと言われる」のか裁判所は死刑判決 官位,財産没収の上,斬首に飽き足らず,斬首した首を3日間さらし,
その写真を撮り全国にある彼の組織した警察署に撒いたという
↓
それに対し「西郷隆盛」の場合は同じ罪ながら官位は逆に昇進
西郷の弟に留学を命じ、上野に銅像まで建てている
↓
「維新の十傑」を隠す理由は上記にあると思われる >>562
萩の乱を起こした前原一誠はなんなんだよ 長州藩整武隊事件
幕末で意外に金欠だったのが長州藩
明治初年の収入÷負債比率は3倍を超え、全国でもかなり悪い
永世禄10万石を貰った時にも兵士への分配はわずか5000石
(表向き1万石だが半分くらい還流させている)
諸隊の反乱が激化するといったんは恩賞を約するが鎮圧後は再びホゴに
救助米を出すと約束したがこれも履行されず10数年が経過
毛利家ではらちがあかないのでついに総理大臣黒田清隆に直訴する騒ぎになる
黒田は「こういう嘆願が来たけど何やってんの」と照会する
それでも無視しようとしたので、反政府系の朝野新聞に訴え記事が広まるようになる
最初は嘆願運動だったが旧民法の施行(明治23年)以降は財産権侵害として争うようになり
整武隊士が明治30年代に毛利家を相手に訴訟を起こした際は
中央のメディアが隊士に同情的な論調を張り社会的事件となった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています