【謎の歴史観】西郷どん その4【なんで史実じゃダメなんですか?】
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幕末って史料が多すぎて新説って今まで誰も詳しく読んでなかったものを検証したら
従来の説と違うことが書いてあったってケースが多いからな
もっと古い時代の新説にありがちの単なる想像と一緒に考えてはいかん 西郷が悪モードに入っても鹿児島に帰ると呑気の音楽に変わるのには苦笑した
一つ良いところをあげるとすると西郷の弟が批判的な視線で見つめている描写が良かった >>481
いや、龍馬(脇役)を殺した犯人が判明してもしなくても問題ないと思うけど、
主人公が何したのか不明ってしちゃうと、
主人公が見ている人から離れた存在になっちゃうよねって事を言いたかった
主人公の決断や苦悩(とそれらの中身)を描かないと >>481
坂本の行動を討幕派よりに解釈する説は40年以上前からあって、
べつに新説ではない、むしろ極端すぎる旧説
おそらく木戸への9月20日付書簡で乾と後藤を交代させるとか
あのあたりが根拠なんだろうけど上洛後の坂本の行動と整合しない
(上洛後の坂本は土佐藩の建白受け入れを働きかけている)
長州藩と関係が深く、一方で土佐藩士としての顔も持ってたから
場面場面で相手に合わせた発言してるというだけのこと >>489
暗殺直前の坂本龍馬の行動の解釈は、昔からずいぶん揺れているのですね。
1次史料に近づけば近づくほど、龍馬は行動に整合性がなく、矛盾のかたまりのように感じる。
だから芝居の演出家からは愛されたのかもしれない。何十通りでもちがう描きかたができるから。 「楠木正成が煮立ったウンコ敵にぶっかけたから元寇でもやってた」
公共放送がいいかげんなこといってんじゃねーよ
これで受信料強制徴収なんてもりかけなんてかわいいレベルの国家的詐欺だ。
そもそも楠木正成は本当にそんなことやってたのか?確かに太平記には
そう書いてあって痛快ではあるが、現実にやったらどうなるか想像できないのか?
そんなの、大釜で煮込むほうがほとんど拷問に近いじゃないか!!
敵にふりかける前に、味方のほうが倒れてしまうだろう。
さらに問題なのが、「ウンコそのものには殺傷力がほとんどない」ということだ。
いくら臭くても汚くても、根性のあるやつなら構わずに突進してくるだろう。
煮立ててたら火傷するかも知れないが、それなら最初から熱湯をかけたほうがいい。
水と違ってウンコを狙い通り敵に当てるのは至難の業だ。やったことないけど。
そればかりではない。水洗トイレの完備した現代人はウンコ見ただけで逃げ出すかも知れんが、
戦後まもなくまで、東京都内ですら「肥たご」というものがあり、落っこちる子どもが大勢いた。
ウンコくらい別に珍しくもない日常茶飯事だtらのであつ。
まして14万もの大軍が押し寄せた博多湾も伊万里湾も海洋投棄されたウンコで黄色く染まっただろう。
迎え撃つ数万の日本軍もそこら辺で野グソ(変換できないんだ。)
今さら誰がウンコくらいでビビるんだよ。
「博多湾がウンコ色に染まった夏、元軍は疫病で戦力低下した」とか
当て推量なら俺がもっと面白い話してやるよ。
ネットより面白い話を公共放送がやってみせろよ。 >>491
>敵にふりかける前に、味方のほうが倒れてしまうだろう。
>いくら臭くても汚くても、根性のあるやつなら構わずに突進してくるだろう。
何で味方は倒れるのに敵は突進できるんだ >>492
発想を変えよう
味方が煮込んでも平気なものをふりかけられたからといって、
敵だけ平気じゃないと思うか? >>493
もしかして自分で書いた矛盾に気づいてない? >>494
味方が煮立てる際に無防備で実行する筈がないと思うが >>496
うん、鎌倉時代にどんな防備法があったの? >>497
そりゃ文献を当たるしかないだろう
扇ぎながら鼻でもつまむくらいしか俺は思い当たらないが >>490
みんなそんなに定見があるわけじゃない
だいたい組織の都合と雰囲気で決めてますから サラリーマン川上君
七三ってそんなに恥ずかしいの?なんで?
それよりセクシー部長を出してくれたらいいのに 日テレとコラボしたのか
両方見比べるの忙しいな
テレビ二台ほしいよ 10月に予定されてたのは薩長による「武力討幕」じゃないんだがな
西南雄藩の動きを中心に描くという古い構図が頭から抜けきらないから
おかしなこと言っちゃうんだろうな 本来なら最終回ネタの江戸城無血開城が残り10分のネタか
って、いきなり篤姫出してんじゃねえ 少しはいいことも
「慶喜を生かしておくと必ず復活する!」 この一言で、
私個人の長年の謎が1つ解けました。
慶喜といえば「貴人情を知らず」 明治の世にあって、
困窮する幕臣を尻目に自分だけ贅沢して自転車乗ってた。
いくら何でも酷い、と私は若い頃から義憤を感じていたけど、
これは大石内蔵助のような深謀遠慮だったのかも。
つまり、薩長閥による明治新政府は必ずしも好評ではなかった。
そんな中、前政権の当主が部下と苦楽を供にし、
人望を集めていたらそれこそ内乱になりかねなかっただろう。
あえてバカ殿を演じることにより、「俺も幕臣も無害だからこれ以上するな」
と言いたかったのかも。あくまで私の当て推量であって、
単に本人の地であるような気もぬぐいがたいが。 そんな処世術は古の三国志とかでもありふれた話だろ
策では無くて、意思表示とか交換条件って事なら分かる
結局カムバックしなかったんだし忠臣蔵の話とは、むしろ真逆だな >>512
豚姫は、西郷が惚れ込むに値する程度の知性と剛毅をもって演じさせて欲しかったなと思う。
でもまあ仕方ないか。架空の人物だし、京から離れられないだろうし。 家近良樹「その後の慶喜」に詳しいけど
慶喜が静岡でリタイア生活送ってたのは勝・大久保など旧幕臣に
表に立つ言動を控えるよう言われてたからでしょ
社会的言動ができないんだから後は趣味に打ち込むしかない
幕臣が苦しんでいるのにというけど、腹心の永井尚志にすら会わないほど徹底した謹慎で
渋沢以外ろくに家来に会えないんだからどうにもならない 静岡で幕臣が必死で農作業やってるすぐ横を自転車で走ってたそうじゃないか 無血開城前なのに江戸城から接収した毛で作った白熊被ってる >>515
好きな趣味にお金をかけて、贅沢三昧を"徹底した謹慎"とは言わないと思う。 危惧されてたことではあったけど、結局薄っぺらな幕末学園ドラマのままだったなぁ
獅子の時代、翔ぶが如くは何度も見返すけど、2度と見返すことはない大河だからもうどうでもいいけど >>518
謹慎じたいは明治2年9月に解除されている。
だから同年10月5日には宝台院を出て紺屋町の屋敷に移り、美賀子夫人と同居。
しかしその後も勝海舟らの求めで静岡で暮らしたというだけ >>516
上京した時に静岡と同じく猟をしたら百姓の畑を荒らして
百姓が激怒してるから感覚がズレてるのは間違いない
別人種だな 贅沢三昧、遊蕩に耽るというのが時の権力者を欺くには1番いいんだよ
大石内蔵助もそうだったろ 鳥羽伏見の戦いが慶喜の本意でなかったというのは疑わしい
開戦の報を受けた慶喜は仰天して戦闘中止を命じる ここまでは史実
ただしこの後、陸軍が不思議がり「入京後は開戦になるという奏聞書と討薩表は届けたはずだが。
思し召しから出たのではないのか」と反論して書付を見せた
これを見た慶喜は板倉に文句を言った程度で、あとは怒らなかった
なぜ大して怒らなかったのかいまだに不思議だという近習の回想がある
要するに、慶喜は滝川らの進軍を黙認していたし、入京後に薩摩藩兵を攻撃することも知っていた
相手に悟られないよう弾込めをせず穏やかに進み、その後で戦闘を始めるつもりが、
バカの極みというか入京前に薩摩藩兵から先制攻撃をかけられることは予想していなかった 史実派・史実厨には厳しい冷酷な宣告がきた
大河ドラマ「西郷どん」プロデューサーに聞く 大胆な脚色「年表のように再現しても人物の本質描けない」
http://www.sankei.com/west/news/180926/wst1809260025-n1.html 史実なんざ問題じゃねえ
フィクションだろうが構わないが面白くないから文句あるんだ ワシは面白い。
色んな言葉が飛び交ってる。
勝の江戸言葉かっけー。 なるほどー
西郷隆盛の本質ってこういうだったのかもなー
ってこのドラマを見て思っている人なんか、
マジで1人もいないんじゃないか?w 錦の御旗はインチキだと思っていたが、その通りだった。 インチキであってもみんなが信じて大ブームになったらいいんだよ
せめてインチキにしてくれよ。せめて。 第36回 慶喜の首
http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/54198254.html
考証もだめなんだろうな。
原口泉は最近の研究にアップデートしきれてるか微妙だし
磯田に至ってはその辺の歴史愛好家と大差ないだろ 歴史家って職業も、自分の思想や信念を背負ったものもなく
ただの小器用な歴オタが売名出来て研究職をゲットして良かったねってだけでしょ? おい、台風どうしたんだよ
画面のすみに台風情報出しとけ 慶喜は政治家ではなく官僚だな
官僚は人徳なくても務まるが政治家は人望がないと無理 (鹿児島)市街地近郊の高台にある「西郷野屋敷跡」へ行って来た
たぶん城山決戦の前後に西郷一家が隠れ家にしてたのではないかな、参議辞職し下野してから西南戦争勃発前まで狩りをする際の休憩場所にしてたらしいが
起伏があってゲリラ戦に向いてるから決戦は城山でなく此処でやればよかったのに
因みに鹿児島実業高校正門前の(道路はさんで)向かい側が入口 東京ロストワールド そう夫岩 いいね
一番苦労してそうなカメラさんにエールを送りたい
いつかのダイオウイカもそうだったが、こういう自然科学分野もがんばってほしいものです。
そういえば地球ファミリー無くなったから里山の風景も見なくなったな 川口浩が洞窟に入る
カメラさんと照明の後で入る
ガチ探検だったら照明も浴びないカメラさんたいへんだよな
Youtube で久々に川口隊長見ようとしたら、何が起きたの?
Youtube なんでこんなに登録がうるさくなってるの? >沖縄サヨクによるフェンス汚損の証拠映像
何故警察は、逮捕しないの?
https://www.youtube.com/watch?v=MVAlb78fcPY
中共工作員や反日サヨクを野放しにする知事を選ぶと危険です。ロシアに侵略されているクリミアや、中国に侵略されているチベットみたいに沖縄がなってしまいます。 史実って何それ美味しいの?
明治維新とは・・
エゲレス様に乗っ取られただけじゃっど。
吉之助 西郷は3月5日夜に吉井幸輔にあてて
「進めとの一令相発し候えばすぐさま江戸へ討ちいるばかりに罷りなり候」
(総督有栖川宮の駿府到着で)と有名な書簡を送っている
この書簡は幕府にも勝海舟や大久保一翁などがいるので戦うのが楽しみだと書いているが
そのあとで「地獄にて御待付申上置候て」と記している
少なくとも翌6日の時点まで西郷が江戸総攻撃を断行する気だったのは間違いない
15日および4月11日の城引き渡しの際にも三方から江戸に放火する準備をしてから乗り込んでおり
江戸が救われたのはかなり偶然。一つの要因に、3月13日の初日会談の後のパークスの強硬な反対があった >>543
パークスのパもエゲレスのエもまったく出なかったね(BS放送でみた西郷どん37話)
しかしフランス公使ロッシュだけはヒー様の口から出た。
実物の西郷はもっと好戦的な人だったはずなのに、あんな解釈でいいのだろうか。 >>542
仕事の都合で見れないから好きにやってくれ ひい様って松田優作のご子息だったんだ。
野性的だった父とは目の光からして違うな ttp://blog.livedoor.jp/matrix_zero1/archives/2072072.html >>543
パークスの反対なんて何の影響もない
慶喜が西郷側の条件飲むかどうかでしかなく
飲まなければパークスがいくら反対しようが江戸攻めになった >>552
影響はあるよ。影響ない派は「15日の総攻撃中止に」影響がなかった、
という点を強調するんだよ。いう間でもないが江戸無血開城は4月11日まで不確定
14日の会談で決まったのは翌日の攻撃の中止であり総攻撃自体の中止ではない、それも西郷の独断
従って板垣退助などは強い不満を表明している
東山道軍や京の新政府を説得する際にパークスの勧告が使われたことは確実
パークスが征討過程における新政府の説明不足を指摘したことは岩倉具定書簡にもみえる
さらに
>慶喜が西郷側の条件飲むかどうかでしかなく
>飲まなければパークスがいくら反対しようが江戸攻めになった
↑
この説の決定的な弱点は、14日の勝の嘆願書の内容は駿府での西郷・山岡会談の内容を
「受け入れていない」こと。全ての条項について留保つき回答をしているし、
勝が山岡の回答を知ったのは10日もしくは12日なので、もともと丸のみする時間的余裕がない
しかも4月4日に呈示された最後通牒も陸海軍の脱走にあい、11日の開城直前に勝が修正回答を行っている
ちなみに研究書などを見てみたが、「パークスの勧告が江戸無血開城に影響がなかった」などとしているものはない
3月14日の会談との先後関係を指摘してるものならあるけど、それは前述の通りあくまで15日の攻撃に関するもの
申し入れたのは慶喜の助命のみであり過大評価すべきではないというのならあるけどね 元々西郷の3月上旬までの超強硬論も独特の行動パターンによる独走の部分が大きく
なぜ和平論に転換したのかはわかりづらい
当初から計算ずくで強硬姿勢を取ったとは思えず、9日頃から14日に至るまでに
様々な方面から働きかけを受けてたぶんに個人の裁量で中止に至ったとみるのが妥当 >>555
脚本の西郷の人間性と史実が食い違ってきたから無理やり補正したってのが事実だよ >>555
西郷は最初は強硬論を吐くけど強硬論をやった事はない
長州征討の処分にしろ、慶喜にしろ、庄内藩にしろ
強硬論を背景に交渉するという外交姿勢 西郷の強硬姿勢が戦略的で相手を譲歩させる方便だという誤解が結構あるけど
あの強硬姿勢は西郷の性格的特徴というか、本心なんだよね
長州征討のときも戊辰戦争のときも、戦争直後は極度に興奮してる
長州征討の時は国元の島津久光が内戦を危惧する方針だったので熱が冷める形になるが
それでも10月に慶勝総督に献策した時点では一撃講和論に近い(あくまでも一撃は主張する)
11月に吉川経幹と会って三家老切腹を履行させてからようやく穏健論に移行する
(11月16日の開国開城論においては長州藩側に立つ)
当初から戦略的に強硬論を活用したというのは全くの間違い
江戸城開城交渉でも基本的に同じような経過をたどっており、
要するに自分が大きな裁量権もらって現場行って相手が信頼できて初めて許す
という当たり前のことをしてるだけで、「戦略的」というのとは違う
あと庄内問題は、そもそも西郷が数日しか庄内に滞在しなかったこと、
任を引き継いだ黒田清隆が明治2年1月に菅秀実に「西郷の指示」として語ったことが広まったので、
実際、どの程度の指示がなされたかは疑問ではある
(庄内藩兵はほぼ無傷で撤退を完了しており、もともと強硬策は取りようがなかった) 慶喜も変説で有名だが西郷も変説の常習犯
理由は、事件直後にはめちゃくちゃに興奮して裁量権をもぎ取って前線に行くけど
その辺で1カ月経って徐々に醒めてくるから
だから京の太政官は西郷に不信感を抱く者が少なからずいるし、
現地の長州藩兵なども「薩の横暴」に不満の声が出るようになる 昔、ヒストリアの大村益次郎特集で、彰義隊をなかなか攻めない西郷に対し、
「西郷は幕府に譲歩し過ぎる」として京都から大村益次郎が送り込まれ、
一日で攻め落としたとかやってたな。 ◆幕末,維新をねつ造する歴史教科書◆
それを踏まえて「幕末、明治維新」の時代背景を考察すれば
「今教えらている歴史に齟齬がある」それを考察してみよう
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「維新の三傑」は習ったでしょうが,本当は「維新の十傑」である
@、西郷隆盛(さいごうたかもり) 薩摩藩 1828年〜1877年
A、大久保利通(おおくぼとしみち) 薩摩藩 1830年〜1878年
B、木戸孝允(きどたかよし) 長州藩 1833年〜1877年
C、小松帯刀(こまつたてわき) 薩摩藩 1835年〜1870年
D、大村益次郎(おおむらますじろう) 長州藩 1824年〜1869年
E.前原一誠(まえばらいっせい) 長州藩 1834年〜1876年
F、広沢真臣(ひろさわさねおみ) 長州藩 1834年〜1871年
G、江藤新平(えとうしんぺい) 肥前藩 1834年〜1874年
H、横井小楠(よこいしょうなん) 肥後藩 1809年〜1869年
I、岩倉具視(いわくらともみ) 公家 1825年〜1883年
↓
この10人の内うち4人が暗殺され,3人が「明治政府に対して反乱」を起こし、最終的に刑死又は自害している
、
、
特に後に「佐賀の乱」を起こす「江藤新平」は明治政府に所在し
日本中に警察組織、裁判所制度を確立した人物である
また清廉潔白,誠実さ,愚直さは「西郷隆盛」に似ており
「西郷隆盛」と不思議と馬が合った
↓
明治6年の政変で「征韓論」が唱えた西郷を支持し江藤も支持、それが否定されると西郷は明治政府を辞任する際江藤も辞任する
後に2人共明治政府に対して反乱を起こすが「2人共,士族救済の為の義挙」と言える
↓
しかし2つの反乱は明治政府に鎮圧されたが首謀者の扱いが段違い
↓
「江藤新平」に対しては当時「三権分立がない」のをいいことに
「明治政府の圧力があったと言われる」のか裁判所は死刑判決 官位,財産没収の上,斬首に飽き足らず,斬首した首を3日間さらし,
その写真を撮り全国にある彼の組織した警察署に撒いたという
↓
それに対し「西郷隆盛」の場合は同じ罪ながら官位は逆に昇進
西郷の弟に留学を命じ、上野に銅像まで建てている
↓
「維新の十傑」を隠す理由は上記にあると思われる >>562
萩の乱を起こした前原一誠はなんなんだよ 長州藩整武隊事件
幕末で意外に金欠だったのが長州藩
明治初年の収入÷負債比率は3倍を超え、全国でもかなり悪い
永世禄10万石を貰った時にも兵士への分配はわずか5000石
(表向き1万石だが半分くらい還流させている)
諸隊の反乱が激化するといったんは恩賞を約するが鎮圧後は再びホゴに
救助米を出すと約束したがこれも履行されず10数年が経過
毛利家ではらちがあかないのでついに総理大臣黒田清隆に直訴する騒ぎになる
黒田は「こういう嘆願が来たけど何やってんの」と照会する
それでも無視しようとしたので、反政府系の朝野新聞に訴え記事が広まるようになる
最初は嘆願運動だったが旧民法の施行(明治23年)以降は財産権侵害として争うようになり
整武隊士が明治30年代に毛利家を相手に訴訟を起こした際は
中央のメディアが隊士に同情的な論調を張り社会的事件となった >>563-564
三傑も十傑も最初に言い出したやつは同じ
高杉晋作がないという反論には面食らうしかないが
高杉は長州藩境防衛の一司令官にすぎず顕彰運動が本格化したのは明治40年代
前原は越後戦線で戦功があり賞典禄600石を貰っている(戦功基準だが長州藩で4位)
越後府の事実上の首班から参議兵部大輔にまで上っている
同じく早世した広沢、大村と並ぶ評価は当時としては穏当 >>565に続く
毛利家は高名な弁護士を雇い鑑定書を作成させ請求を退けようとするが
徳山の献功隊・山崎隊の元隊士は岡崎正也の鑑定を得て新たに請求を起こす
毛利家は蝦夷地討伐の際にも賞典2万5000石の3か年分を貰っていたため
敗色が濃くなった毛利家はあわててはした金を支給して納めようとするが
怒った諸隊士は訴訟の動きを見せ社会的なスキャンダルとなる ドラマの西郷ドンは戦争が広がって困惑してたけど、
史実の西郷ドンは会津断固討伐じゃと手紙に書いてるよね Nスペで「AI・ロボットが人間の仕事を奪う」と言ってる。
その時こそベーシックインカムをやったらいい。
面倒な仕事は機械に任せて、ロボットは賃金いらないから
利潤タダ取りして、政府が人間様に配ればいい
人間は働かなくても毎日食えて遊び暮らしていればいい理想の未来だ! 中小企業診断士ってあーた、
士業こそ真っ先にAIに奪われると言われてるのに。 と、思っていたらベーシックインカムの話始めたな
さすがはNHK、ちゃあんとお見通しだったか。 なんかテレビ東京で巨大コンテナ船やってんな
池の水以上に面白そうだ ロボット雇用して人間クビにして、
それでいくら財を生産しても、
人間様に買えるだけの収入がなければ、
人間もロボットも共倒れだ。 >>562
横井小楠を加えるなら由利公正を除くのは変だし、土佐勢がゼロなのはもっと不可解。
バランスが悪すぎると思います。 >>565
あれだけ戦争ばかりやった長州が金欠になるのは当然だ。意外でも何でもない。 西郷は基本脳筋で果断実行の人物。
自分に正義ありと思えば断固として行動するが、
一方で自分と意見の異なる人の話もちゃんと聞いて相手の言い分がもっともだと思えば、
決して自分の考えや自身の損得に固執することなく
相手の主張を容れるだけの度量を持った人物だったんだと思う。 >>578
相手の主張を受け容れる度量を持つともいえるし、他人の意見に流されやすく一貫性に乏しい人物ともいえる。
でも、そんな人物でなければ、多数の勢力を糾合し、維新回天の大業を成し遂げることはできなかった。
西郷の歴史的評価は難しく、いまだ定まりきってないけれど、勝海舟が氷川清話で引いたように「西郷といふ奴は、
わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く」これがいまでも最も的確な西郷評なのでは? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています