>>61
実際、小松帯刀や後藤象二郎は
大政奉還直後の新政府構想の
今で言う副首相格で慶喜を遇すると言う事を
かなりマジで発案してたからな

後藤象二郎は大政奉還後に薩摩土佐の連合で上京した際に松平春嶽にその案を提示したけど、
この時強硬に反対したのが薩摩の大久保、それでは看板を付け替えただけだと
本来であれば小松帯刀が上京して顔の広い外交家の小松が在京薩摩を含む各方面を収拾する予定だったけど、
持病の足痛の悪化で土佐から京都に上る事を断念、代理を強硬派の大久保に任せざるを得ず
(薩摩国内の主流派、むしろ出兵、京都介入自体を嫌う保守派)
軍勢を率いて上京した薩摩の京都担当(大久保)がこうである以上、後藤もこの場では折れざるを得なかった