>>69
>>70
前提として、西郷大久保の薩摩藩内での支持率は決して高くない
実質トップである久光・小松ラインと一定の利害一致があって庇護下にあって利用されてたから
相応に扱われてはいたけど、戊辰戦争前の段階で彼らが薩摩の大勢だったと言う事はない

斉彬の時代から、分家門閥を中心に中央政治介入自体に消極的な保守派が最大派閥で、
茂久の代になって藩内掌握と中央進出を目論だ国父三郎が保守派への対抗上、
門閥家でも顔が広い小松を通じて京都や二才に顔が利く新興勢力の精忠組を取り込んだ面もある

幕末末期の局面でも、西郷が長州との交渉で選択肢としての薩摩の出兵を口に出した事が国許に漏れて
久光に無断の越権だと保守派が西郷に刺客を送ると言う話になったり
予算負担の限界もあって京都への出兵自体の反対論がむしろ薩摩藩内の大勢。

久光、小松は、内戦は望まないが政略上威嚇出兵やむなしの方針だったけど、
肝心の久光、小松が京都どころか脚気、足痛で揃って薩摩国内でダウンした状態で
京都では出兵後を西郷、大久保に預けられる事になって、
小松の外交力を欠いて越前、土佐を巻き込んだ慶喜の朝廷政略に追いまくられて
これで何がなんでも成功しないと西郷らはまず藩内から物理的に首とられる状況だった

結論を言えば久光、小松が十全に動ける状況では西郷、大久保は手足に留まらざるを得ない
薩摩藩内でも現実的な支配層だった保守派の圧力から庇護されている立場である上に、
そんな状態で久光を本気で怒らせたら一たまりも無いのは寺田屋と沖永良部島で骨身に染みてるから
西郷も沖永良部島から明治政府出仕迄は久光に明確に服従して
戊辰の論功組と薩摩の旧門閥の関係が悪化して久光の逆鱗に触れた事で西郷は精神的に相当参ってるぐらい