噂をすれば影と言いますが、さっそく会津領主の狂信的な会津プロパガンダ信者が現れました

会津プロパガンダ信者は意図的にわざと薩長を貶します
驚くべきことに会津で一番薩長と長期にわたり戦った西郷頼母でさえ「無能」とか言ってこれでもかと罵倒しまくるのです

普通に考えれば無能なのは元会津藩主で、この人は西郷頼母とは異なりわずか一日でさえ戦線を持たせることができずに驚くべきことに少年兵(白虎隊)や女を盾にして城に逃げ帰ります

少し歴史を知っているものであれば、この時期に領民の家を焼いたのは会津側だという事を知っています
それで会津の農民や町民は怒りまくり、薩長と協力して、道案内の危ない橋を渡り薩長が二本松からわずか2日で会津城籠城戦へと勝利を確定させたのです

会津戦争の間は一部の例外を除き、会津の人々は薩長と世間話をしていますし、城から出てくる会津藩士とも交戦しています

その後の会津のい人々はこの当時の薩長と共に会津を落とした板垣退助と共に福島自由党で政治活動などをしています
ここらか先になると確かに薩長とも相反していますが、これもまたいろいろな政治活動や事件が複雑に絡んでいます
ですので、省略します

ただ戊辰戦争では数多くの会津の 農民や町民が薩長をもろ手を挙げて招き入れたことがあるのは事実です
板垣退助はこの時に会津の人々と交流を結びましたし、すぐに会津城の人々を助けるために動いています

また一緒に城を落とした薩摩は薩摩で死罪当然の元会津藩主や会津藩士を許し、元会津藩主はお礼に中村半次郎に名刀まで送っているのです