子どもから大人へチェンジする場合は、別に外観が似ている必要はない。
視聴者もそこには断絶があることを了解しており、織り込み済みだ。言わば仕切り直せる。
これに対して、もうじき成年年齢に達する青年を中継ぎの「子役」に起用した場合は、
本役との連続性が外観上も性格上も強く要求される。同一人物に外も内も見えないと
まったく別の主人公のドラマとなってしまうからだ。なので、過去作でも主人公について
そのような無茶をやった大河はほとんどないはず。
たとえば、清盛が棟梁となったのは36歳の時。まず、高野山造塔という大仕事(歴史上の清盛についても
最初の特記される業績)を成し遂げ、大きな父忠盛を乗り越えた清盛が「中継ぎの子役」ということ自体
あり得ない上、晴れて棟梁の指名を受けた清盛が、次回突然まったく別の中年顔となって「俺が棟梁だ」
と宣言するシーンを想像するだけで、その滑稽さに笑いがこみ上げてくる。
結局、清盛に関しては、子どもまえだ君を受けて本役にチェンジするオーソドックス以外に選択肢はなく、
しかも、その本役は「ヤンチャな青年」清盛を演じられることが不可欠の適性要件である以上、
年寄りの出る幕はなかった。その後、松ケンは壮年はおろか老害清盛までを一人で演じきり、
老人清盛演技の方を評価する声の方が多いほどだ。清盛はどこかで必ず無理が出る大河主人公の
役年齢&実年齢との乖離問題に対して、最適解に近い正解を与えた大河でもある。