慶喜はあくまで京都の一会桑政権の盟主であって江戸幕府の首班とはと言えるような状況では無かった
かって文久の改革で復権するや否や旧一橋派の薩摩や越前を切り捨てて
会津桑名と組んで一会桑政権と作ったのと同じで
将軍になった時点で本来会津桑名は慶喜にとって用済みあり
すでに切り捨てに掛かっていたが鳥羽伏見で負けた時点で
完全に見捨てて今度は江戸幕府の本体の掌握に掛かるために
江戸に戻ったが政治工作をしている間に西国が完全に新政府軍の軍門に降ってしまったので
諦めたのが流れ