>>114

町田 明広@machi82175302

一方で徳川慶喜は、西欧に留学経験がある側近の西周に、「議題草案」を作成させた。
天皇を山城に封じ込め、上下二院からなる議政院を置き、自身が上院の議長となること、軍事権を各藩から奪った上で、郡県制を布くことを骨子としていた。 
#西郷どん


慶喜は、大政奉還をしても朝廷が政権を担うことなどできないと踏んでおり、実質的には慶喜がそのまま日本を統治し続ける目論見であった。
こうした状況下で、西郷は王政復古クーデターを早期に実行し、いち早く薩摩藩が主導権を握ることを画策した。
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慶喜は12月14日、助力を求めるためフランス公使ロッシュと会見した。
慶喜は12.9政変を非難し、天皇に対して新政府を承認しないように求めると主張した。
16日にはロッシュの助言を踏まえ、慶喜は英仏米蘭普伊の6国公使らを引見した。
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慶喜は6国公使に、大政奉還より王政復古に至る経緯を説明し、12.9政変が不当であるとして内政不干渉を求め、旧幕府が通商条約を順守して外交を掌ることを言明した。
慶喜は、旧幕府こそ日本の正当政府であると列強に認めさせることを狙ったのだ。
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また、慶喜救済に賭けた容堂の活躍は、それまでの不誠実な容堂とは比べ物にならず、その尽力によって慶喜を議定に就任させ、辞官・納地もなし崩しにすることがほぼ確実になった。
薩摩藩・西郷の敗北は、目前に迫っていた。ここで、結果として起死回生の出来事が江戸で起こった。
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