【2018年大河ドラマ】 西郷どん part95
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>>670
島津久光は倒幕行動など容認したことは1回もないよ
国元からの出兵の際にちゃんと念を押している >>669
それは殿様の力が低下してる事の現れなので全く矛盾しない
確かに久光は保守派との革新派の間に挟まれていた
寺田屋騒動の時くらべても明らかに低下している >>671
だからその辺が微妙と言うか
「討幕」は無いだろうね。少なくとも
だけど、大政奉還を核として政治機構としての幕府を打倒すると言うレベルだと
既に幕府を前提に雄藩と協調すると言う姿勢は
慶喜には微塵も無い、しかも一時は調子よくすり寄って簡単に切り捨てる、
と痛感した上での出兵だし >>672
矛盾するだろ。
身分差が厳然としてて貢士は議定とは同席もできず対抗もできない
などと嘘八百言ってた舌の根も乾かないうちに
あっさり参与諸侯が藩士に振り回されてる実態を認めてんじゃねえよ >>673
幕府を打倒?政権返上によって幕府じたいが存在しなくなるのに何を打倒する?
島津久光は慶応3年9月においても11月においても一貫して武力行動に忌避的
それどころか6月の薩土盟約の目的(王政復古)にもあまり乗り気ではない >>674
矛盾しない
その時に久光に力があれば周りを抑えつけてる
寺田屋騒動の時にはまだあった
しかしその力はすでにない
だから下級武士が意見したりできる >>675
西郷大久保を抑えつける力がすでにないからな 久光に下級武士が意見出来るかどうかはおいといて、小御所会議みたいな場面と時点では中央の徳川に意見なんて出来る訳ないでしょ 西郷大久保が倒幕の密勅を鹿児島に持ち帰りそれで久光を説得して御所を守るという名目で薩摩藩兵約2千が藩主と共に上洛した
久光は鹿児島に残る >>676
矛盾するだろ。
議定と参与では身分差が厳然として同席もできず慶喜を抑え込む力もない
だから排除あるのみというのが>>664の言い分だが
幕末の藩侯は有力藩士もしくはそのグループに依存しないと藩政が円満に運営できない
よってその理屈は全くなりたたない
西郷が慶喜排除にこだわったのは、慶喜の政治的手腕が他の四候を圧倒しててコントロールできないから
もちろん諸侯統率権を持つ将軍という地位もあるけど、そちらのほうは自ら返上している
要するに政治家としてかなわないから排除するというのが本音 >>685
俺が言ってるのは薩摩藩の話
西郷大久保と久光の話 >>678
でも発言できなくても言い分が通ってるじゃん
18世紀のイギリス庶民院と貴族院にせよ、フランスの三部会にせよ
非貴族選出議員も結局は貴族院に協力者を見つけ出すので結局は多数決原理に近くなる
藩の家中統制や発言権の問題では身分差・序列は厳然としてあるけど、
実際の影響力という面で身分差を過度に強調するのは正しくない >>685
>議定と参与では身分差が厳然として同席もできず慶喜を抑え込む力もない
だから排除あるのみというのが>>664の言い分
これは正しい ニュアンス違うよ
抑え込む力うんぬんじゃなく、義の話だよ
慶喜を参加させたら「なびく」という事 >>687
直接「こうしてください!」言った訳じゃないよ >>686
>>666で>>664に同意してるんだからお前も同じ立場だろ >>685
利口な慶喜を恐れたのはそうだろね
それもそうだし自分のやり方しか認めないからな
どちらも理由になる >>688
まったく正しくない。
ではなぜ政治力も血統もずば抜けていた慶喜が大政奉還上表で公論の重要性を説いてるわけ?
要するに生まれもっての血統と政治力だけじゃうまくいかないことが分かったからでしょ?
矛盾しまくってるよお前は >>690
まさにそれを>>687で書いたんだが、
新政府を武力で創出しても身分差は残るんだよ?
実際に明治政府も公卿・大名家出身者と貢士出身者の序列は残ってるわけだし
しかし実際は庶民院が貴族院内部に協力者を容易に見つけ出せるように
多数決に近い形で収束していくから、身分差は事実上意味をもたなくなる
少なくとも徳川慶喜の処遇に関して「身分差」を問題にするなんて聞いたことがない >>694
は?慶喜は自分のやり方しか認めないだろ
四候会議でそれが最終的にわかったから薩摩藩は会議で武力もありの倒幕を決定した >>689
>慶喜を参加させたら「なびく」という事
なびいて何が悪いの?それが公論なら仕方ないじゃん
他にどういう意思決定の方法がある >>696
そりゃ明治政府も完璧ではないわけ
西郷も体たらくに落胆して初めは距離をおいていた >>696
んや、結果論として徳川を参加させなかったから自由に議論出来る訳でしょ
西郷大久保が慶喜つまり徳川を排除したかったのは江戸幕府下で生きてきた彼らが徳川を恐れていたからだよ >>698
それは言うならば四候会議と同じになってしまうから >>698
公論てのを慶喜が本気で思っていたとしても西郷大久保にとっては徳川下の政府イコール幕府と何も変わらない
つまり西郷大久保は意見など出来ないだろうと考えると思うが 勝のような旗本は将軍に御目見えは出来たとしても直接意見を言えたりしたのか?
それとも幕末だから? >>697
四候会議が慶喜の思い通りってどこソース?
三侯と慶喜の対立点は長州案と兵庫開港案の先後だろ
それを見た山内容堂が松平慶永を招き、兵庫開港を独断で進めると
芋の策に陥るので注意するようにと促し、
慶永が同時奏聞案を提案して慶喜がそれを受諾
5月19日に薩摩、越前、宇和島の三候も「御同意の体」
で、翌20日に山内容堂も賛意を表明して諸侯間ではこれで終わり
残りグダグダ文句言ってたのは大久保一蔵だけだろ 徳川の傘下で力を持っていた者達は新政府になろうが力を欲するでしょ
もしも徳川が新政府に参加したらなびき、力を持つ、それを失わない方向の制度や法が出来ていたかも知れないよ?
西郷大久保隅っこで愚痴ってたかも
「何が公論だ…」と >>700
>んや、結果論として徳川を参加させなかったから自由に議論出来る訳でしょ
薩長芸と言った「両三藩」以外の藩にとってはそうではないよ
彼らは薩長のような大藩によって牛耳られることを嫌がってるから
比較的多くの藩に政治参加のチャンスを与える慶喜案のほうが好ましい
いったい誰を基準に「自由に議論」と言ってるんだお前は >>705
おそらく徳川慶喜が許容してた政治参加の範囲のほうが薩摩藩よりは広いと思うけど
万が一「専制」になったらそれこそ自由民権運動でも民選議院設立建白でもどうぞ
現実にはそれで国会開設を勝ち取ったわけだからね >>706
そもそも誰視点なの?
西郷大久保目線で徳川を排除しようとした意図を会話していたんだが ID:FjL6qni1の言い分もわからなくない
がしかしわかってない
薩摩藩は斉彬のいる頃から別に徳川が政治の中心にいても良いと考えてた
斉彬久光が求めたものは譜代以外の薩摩をはじめとする諸侯を国の政治に参加させることだった
しかし井伊直弼はそれを拒否
慶喜が権力を得て変わるかと思えば今度はー会桑派をつくって薩摩や長州を排除
最終的に四候会議失敗
そこで西郷大久保は徳川はどこまでいっても糞だと悟ったんだよ >>707
西郷大久保目線な
慶喜の許容範囲以前に徳川を怖れるでしょ
「あいつらだけは参加させちゃなんねえ!」となると思うが >>708
西郷大久保が何で徳川家を排除する権限を持ってるの
それは公議で決めることでしょ?
もともと大政奉還の上表でもすべて諸侯の上洛を待って会議で決めるとなっている そもそも慶喜がそんな公議主義者ならー会桑派なんて作って長州征伐するかw 権限てなんだよw
身分否定したり権限にこだわったり忙しいな >>709
そんな説は聞いたこともないね
島津斉彬は井伊政権の後期には通商条約賛成に転じてる
確かにこの時期の幕薩関係は緊張してたけど文久期になると久光の率兵行動を容認し
政治の中心も老中ではなく松平慶永や一橋慶喜ら同志的存在で占められる
そのあと慶喜と久光の関係が悪化したのは2人の間の問題であって幕薩関係の問題ではない
現に長州再征の際も板倉・小笠原ら幕閣は薩摩藩と協力姿勢を見せ開戦に反対している
また長州征討後も幕薩関係は一時的にとはいえ修復されているし、
四候会議で追い込まれたのは小松・西郷・大久保に代表される強硬派の在京藩士で、
両高崎や川上助八郎らに代表される穏健派の藩士は逆にこれに反発し内訌状態に陥っている
お前は「薩摩藩」=「西郷・大久保」と同定してるからおかしなこと言いだすんだよ >>715
孝明天皇が慶喜や容保を信任してるのにどうしろと?
文久政変や禁門の変で御所守ってた人間と国元にいた人間ではお覚えが違って当然だろ
しかも薩摩藩も朝廷工作散々やってたわけだが >>718
都合の悪い通説は認めないのかw
家近氏もNHKで言ってたがw >>719
なるほどやはり慶喜は公議主義ではないな また何かで揉めてるみたいだが、1つ1つ読んでたら明治政権についてみたいだが
最近の大河ドラマの明治は、暗い時代として描かれてる傾向にある
栄枯盛衰の激しい時代であっただけに、没落した人にとっては暗いかもしれんが
坂の上の雲の冒頭の渡辺謙のセリフや、庶民に近い元松山藩士の描かれ方を見ると
何かこっちの方が近いのでは?と思ってしまう
徳川を倒したはいいが、日本をどのような国にするか?誰もこれといってなく
いきなり政府首脳が自分探し(国探し)で外国へ長旅に出掛ける始末
政策も何度も変えての連続だったようで
例えば都道府県設定も色々あった、堺県や色んな県が出来ては消滅したり
奈良府や神奈川府など府がたくさんあった時期もあった
こんな試行錯誤で手探り手作り感一杯の政権であったが、これが結果として良かったのでは?
失敗だと思えば反省し、また新たな方法を考える姿勢
今までお上に意見する事は蛮社の獄など、命を賭ける事を意味していたが
誰もが自由に発言できる世の中になり
政府要人のほとんどが暗殺襲撃事件を経験し、誰も熱く本気で意見を持っていたのであろう
あくまで想像で明治全体像を書いているが
このような熱い明治を語る大河ドラマの方が、見た国民にも心に残るモノがあるのではと思う >>710
四候会議で慶喜が専横とされるのはおそらく3点あって
1、四候側が長州処分の解決を先に求めたのに対して兵庫開港を先決としたこと
2、兵庫開港問題で朝議で粘ったこと
3、兵庫開港が勅命ではなく勅許方式であったこと
だろうけど、
1、については両者同時奏聞方式を受け入れてるから、四候と慶喜の間には妥協が成立している
2、については朝議で奏聞したのは同じく両者同時なので文句を言われる筋合いはない
3、についてはそもそも朝廷が勅命方式を嫌がり責任を丸投げしたのでおいしくいただいただけ
四候の会議や朝議の実態を知らされなかった下級公卿や藩士が
勝手に妄想して昂奮したというのが正解だろう
まあ、それも含めて公論ではあるが >>718
>久光の率兵行動を容認し
は?w
文久の改革は、文久2年(1862年)に江戸幕府で行われた一連の人事・職制・諸制度の改革を指す。
嘉永7年(1854年)の開国以来の混沌とした政治情勢を受けて、半ば非常時の体制へ移行したものであるが、その主導者は幕府自身(幕閣)ではなく、薩摩藩主の父・島津久光および朝廷の公武合体派公卿らの主導で出された勅使による圧力の下、やむを得ず改革を行ったものである。 孝明天皇は天罰が下って死んだ
明治天皇こそ明治の天皇 >>720
幕薩関係は一直線に悪くなってるわけではないし
四候会議の後も挙藩討幕体制に移行したわけではないよというのが
家近良樹の主張だが、>>709みたいなことをどこで言ったって? >>723
また独自研究か?
この5月23日、タイムリミットの迫った慶喜は決死の覚悟をもって朝議に臨んだ。
本来朝命によって召集されたはずの四侯も全員が列席すべき立場であったが、すでに半ば諦め気味の雰囲気が漂い、結局松平春嶽・伊達宗城の2人が参席したのみである。
慶喜の意気込みにもかかわらず朝廷側の抵抗も激しく、「先帝の御遺志」を盾に兵庫開港許可を拒んだ。板挟みにあった二条摂政は結論の先延ばしを図る。
しかし、夜半の休憩中にも慶喜は春嶽に「今回ばかりは議決するまで何昼夜かかっても退去しない覚悟である。さもなくば必ず(大久保・西郷らの)工作が再開されてしまう」と述べ、驚異的な粘りを見せた。
翌日未明に至り、あまりの会議の長さに散会しようとした二条に対して、大納言鷹司輔政が「天皇も将軍も良しとする勅許をこの会議で決められないようでは天下は乱れ、朝廷も今日限りである」と発言。
父の輔煕にたしなめられるが、これを機に朝臣らも二条摂政の優柔不断を責める流れとなり、ついに明け方摂政が折れ、兵庫開港および長州寛典論を奏請し、明治天皇の勅許を得ることが決定した。
慶喜が主導して徹夜の朝議で勅許を勝ち取ったことは、一連の政局における慶喜の完全勝利と四侯会議側の敗北を意味した。 >>724
島津久光は大名ではない一私人だし、
率兵行動は禁じられてるけどその後も薩摩藩は何ら不利益を受けてないじゃん
生麦事件の時は幕府がまず尻拭いにあたり、尻拭いしきれないとみるとすぐ薩摩に通報している
薩摩と列強との講和交渉もいちいちフォローしている
このときに大減封食らった井伊家に比べたらなんだこいつと思うくらい優遇されてるよ >>718
お前こそ聞いたこともない独自研究説ばかり
俺が言ってるのはほとんど通説 >>730
そんな事聞いてない
幕府が改革しないかわざわざ出兵したって意味だろ >>728
いま自分は家近の著書4〜5冊くらい手元においてるんだけど、
どこにも>>709のような記述はない。
そもそも家近は四候会議の失敗が討幕に直結したという見方を取らない。
そのNHKの番組のどこでそんなコメントをしてたって? >>733
ほれ
明治維新150年スペシャル「決戦!鳥羽伏見の戦い 日本の未来を決めた7日間」 >>727
いや独自研究どころか、
まさにお前が参照したと称する家近良樹の本(「西郷隆盛と幕末維新の政局」)
に依拠して記述したわけだが。
なんで同じ学者の本ベースにしてるのにこんなに違うの?
てか、その朝議でかかってた案件が
慶喜と四候の間で合意した長州処分案と兵庫開港案の同時奏聞だったのは
>>723で既に述べた通り。 >>734
それは動画があがってたから自分も見たけど、
パネリストで出ていたのは浅川道夫、保谷徹と作家の加来耕三だぞ。
家近良樹がどこに出て、具体的にどんなこと言ってたって? >>735
え?どこに書いてるの?
>まさにお前が参照したと称する家近良樹の本(「西郷隆盛と幕末維新の政局」) >>737
「慶応期の中央政局と薩摩藩」(「西郷隆盛と幕末維新の政局」所収)
一般向けでは「西郷隆盛」第6章あたりにも四候会議について似たような記述がある >>738
http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=msb0727&prgid=56181487
どこで家近良樹がそういう解説してる? >>741
どの辺で?
論文で書いてること>>723を超えるようなこと言ってる? >>744
(家近良樹が出てないと君は言うけど、家近さんはVTRで)めっちゃ語ってるけど >>744
誰がそんな事言ってるのかキチガイ
いい加減にしろよ >>746
だから、大体どの辺で?
それをちょっと聞いて論文と照らし合わせるから序盤とか中盤とか教えてよ。 皆さまごめんね
西郷大久保目線で何故彼らは徳川を排除しようと思ったのか?を語っていたら、頭ガチガチの上からなものすごく感じの悪いおじさんが若干話の角度を誤解し、全然違う話になりつつある現状であります。
楽しいから許してね(^з^)-☆ >>749
会話になってない
君は出てないと言ったが俺は出てますよと返した
自分でなんとかしなさいよ いちおう家近の理解に従って四候会議を整理しておくと、
彼は慶喜と四候の間に妥協が成立していたことを指摘し
「また朝廷上層部との関係で言えば、彼らは…ばんやむなく兵庫開港を勅許したという形式をとることで
とりあえず責めを免れたとみなせる」
「朝廷上層部も四候(正確には三侯)側もともに逃げた結果が、こうした形での兵庫開港の是認になった」
と言ってるし、
その後の幕薩関係の悪化についても
「挙事」=挙兵と見る従来の見解に疑問を呈してるから、この本を出版した2017年8月以降、
番組を収録した時点までの数カ月で人格が180度変わってなければ今も同じ意見だろ。
まあ、家近に限らず最近はこういう感じの把握が多くなっているけど。 >>756
鳥羽伏見の1日目に出てきたとか2日目に出てきたとか、何かないの?
見てるけど相変わらず学芸員と保谷徹ばっかりで政治史の研究者出てこないじゃん >>755
二回目と三回目みたいね。勝安房とは上野山戦争までの間五回ぐらい会ってる。 >>761
2日目まで見たけどどこに出てくる?
あと30分しかないが一向に出てこない。
ほんとに家近良樹が出てるのか??? >>756
結局どこに出てくるって?
最後まで見たけど出てこねえじゃん ID:BVLMYhQPの馬鹿児島キチガイホモ爺が大暴れw 鈴木亮平は役作りで太ったのか。初期のを見ると全然違っててすこい 西郷が主人公なので、会津観光史学が暴れスレも混沌化すると思い
1ヶ月ほど前まで今年の大河板には来なかったけど、思ってたより会津観光史学は少くなったわ
歴史に詳しい会津信者は今だ健在だが、単純会津信者が減ったと思う
「孝明天皇は岩倉に暗殺された、薩長は死骸を放置した」など
こんな人の意見をコピーしただけの短い文章で書いてた連中
さすがに歴史に詳しい会津信者は、こんな事書かず
以前はよく見かけたのに、今回は見かけなかった >>766
会津爺また人違いかアホw
ID:FjL6qni1 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています